2020/9/19

(うとQ世話し 幾ばくかの救い)

「とにかく書類が多い」

コロナ禍で大きな打撃を受け、その中での生き残り策の策定や実行で忙しくて仕方がないのに、詩人の立原道造作の「丸の内ビル?」の一節ではありませんが

「出てくるわ、出てくるわ、どんどんどんどん出てくるわ」恭(うやうや)しく整えられた書類提出依頼の数々。

何で我が国は、こんな状況下に於いてすら、官民を問わずこれほどしゃっちょこばった書類の提出が多いのか?

自分の推測では、恐らく「様式美愛+威厳誇示+慣行という惰性」からではないかと。

それでも日本人の自分はまだ慣れと耐性があるからいいのですが、在日就労外国人にとっては、この「漢字交じりの紙爆弾」による「昼夜を問わない十重二十重の爆撃」には「諦観マスク」装着以外にない様子。

それだけならまだしも、たまにはちょっとした事件になる場合も。

当店の例で言えば、従業員の前の勤め先での「住民税未納の督促」やら「給与差し押さえ通告」が突如、新規雇用主である自分の元にある日突然舞い込んで来たㇼ。

びっくりして当人や督促元、通告元に慌てて聞いて回ると、2例中2例とも「支払い契約」やら「未納請求」の漢字が読めないために、何が来たのかも拘らず、且つまた相談する日本人もいないためにほったらかしになってしまったままでした。

自分の店では従業員に「来た書類は一切捨てずに自分の処に持って来るよう」指示をしてあるのですが、そうでなかった場合、上記のような事態になってしまう訳です。

当人達にとってみれば「払う意思がない」訳でもなく「逃げている訳でもない」のに、ある日突然「罪人扱い」の文書がやってくる。しかもそれすらも分からないままに、土壇場詰まって事態が分かり、雇い主のこちらも四苦八苦。

日本人の自分ですら内容が複雑すぎて理解に困る程の内容とちょっとの違いで何度も何度も送付されてくる、その数の多さ。

当然彼らには全く分かる筈もない訳で。

だったら「日本語を習ってから来い」

とおっしゃるかもしれませんが、それを故国でできるのはお金持ちだけです。働きに来ているアジア系就労者の大半は貧しいから出稼ぎ、故国送金をしに来日しているのです。

そのような事もあって自分は自らの経験則から、その電話をかけてきた主に

「文書はせめて英語でも出して下さい。英語も分からないアジア系外国人には、漢字交じりの日本語文を全てローマ字表記文で書いて出してやって下さい。

例えば「住民税」なら「juumin-zei」と表記すれば、これは「tax()」の話だと直ぐに分かりますから。

彼らは日本語を音で覚えている場合が多いので、発音記号代わりのローマ字文を見れば、漢字交じり日本語や「文法的に正しい」英語なんかより遥かに分かりますので」

(もし、これが実現できれば、国は税収が増え、在日外国人は不要なリスクから少なからず逃れられ、日本人雇用主は相当量の手間が省ける、の三方両得)

でも、この電話の方はとても理解のある方で

「そういう現実があったんですか。全く想像もしていませんでした。少し検討をしてみます。上にもあげてみます」

それを聞いて自分は、そういう若いお役人さんがまだいらっしゃることに幾ばくかの救いを感じました。

頑張って欲しいものです。

2020/9/8

(うとQ世話し 誤解覚悟で その4 )

以下にお話しするのは「アナクロ復活奨励話」ではなく「姿勢点検」のお話です。

本日も又、誤解覚悟で申し上げます。

「百聞は一見に如かず」

例えばネットで見る写真や動画も含めて「聞」と定義すると、ネットの情報はほぼ100%が加工2次情報(引き回し)なので、それよりは自分の目や耳で確かめた身の回りの現実世界の1次情報「見」の方が、自分にとっての「オリジナル」を得る確率は遥かに高いという風にも解釈できそうです。


「習うより、慣れろ」の後半文言を

「習うより、盗め」と敢えて替えてみると

相手が自分に気づいて自席にやってくるのを待ち、何も言わずとも、痒い所に手が届く様なおまかせメニューで「習う」より、学習方法もわからないところからスタートし、相手の技量を観察によって盗み取って分解し、自分なりに原理原則を組立てて「自分最適解」を見出す方が、遥かに頭を使い、工夫や推理推論を凝らす分、深く身に付くことは想像に難くない気がします。

昔気質の職人は、確かに「意地の悪い一面」もあったかもしれませんが、多くの例を見たところ、それ以上に「どうやったら確実に、しかも相手本人の為に最適な形で伝承できるか?」を自身の体験から熟知していたのではないかなと想像しております。

まず相手が上であるという「謙虚さ」がなくてはならない。

次に「教えてくれぬなら、それでよし。それでも俺は」という「盗むほどの意欲」がなくては、ならない。

三番目には「盗んだものを分析し、推理推論を重ねて原理原則を発見する」観察眼と知恵がなくてはならない。

第四には「それを自分流にアレンジする柔軟さとオリジナリティ」がなくてはならない。

そして最後に何より

「盗んでやる」と「盗めるものなら盗んでみろ」の「真剣勝負」と、その実「速く盗め、俺が目の黒いうちに早く盗んでくれ。そしてもっと先に行ってくれ」の裏に隠された「慈愛」が人(後進)を育てたような気がしております。

席まで来て分かり易く教えてくれなきゃ、勉強なんかしてやんねぇ」というのに、言われるままに「のこのこ出向く」ようでは、教える側、教わる側も、相互の先が見えた、も同然のような気もしております。

以上を踏まえて

自耳自眼見聞(じじ、じがんけんぶん)に基づく「自主自発」での自自「考」「行」

即ち、個々人の既成概念、現常識からの「自主独立」

これからは、それが何より大切な気が致します。就中、コロナ禍の向こうの「ニューノーマル時代」においては。

2020/9/5

(うとQブログ カッコつけなきゃ楽になる)

我が国国民の中にある最強位基底概念は、道徳でも倫理でも法律でもなく「美学・美意識」である。

一体何のことを言っているの?と思われる方も多いかと思います。

そこで、もう少し申し上げますと

「様式美」「型」「スタイル」

で、更に申し上げますと

「カッコ」(カッコいいか悪いか)です。

しかも、その「カッコよさ」の幅、範囲たるや極めて「狭く」「精緻」且つ「厳密」で、殆どオリンピックの超難度技、完璧美技実現レベルであり、そのターゲット幅を少しでも外れると「何の価値もない」無意味なものとして却下される極めて「峻烈峻厳」なものといえましょう(反対に言えば「カッコわるさ」の蔑み方が半端なく物すざましい)

なので、そう負いそれとは手を出せなくなってしまいます。しかもお互いがその出来不出来について監視し合うという「日常的監視網」に晒されているとすれば、益々の事となります。

少し話を元に戻しますと、この「様式美」のもたらす例として挙げられる物に、我が国の英語教育の過度に厳密な文法規則の適応やら儀式の重用、お役所における文書、書面、手続きの「何をおいても守るべきルーティン」等があります。

今コロナ禍に於いて、これらに頻繁に接する機会が増えると、この様式美に基づく、わが国民の几帳面さ、生真面目さ、丁寧さがいい加減いやになる時があります。

「ここまでやらないといけないのか!!」「何をそう儀式ばっているんだ?」「もっとラフにできないの?」

縦横斜め、上下左右すべてに矛盾無きよう整合性が取れて初めて「よし」とする「様式美重用癖」 

外国人は様式美(フォーマル)をたまにはカッコいいと思いますが、ラフはラフで楽しんでしまうのに対して、我が国国民はフォーマルだと安心しますが、ラフとなるとむしろ不安や警戒心を抱いてしまうようです。

もっと言えば相手が自分に対してフォーマルに振舞うと納得し、ラフに振舞うと何か一つ下に見られた、粗雑に扱われた、いや馬鹿にされた、と侮蔑感を感じるようです。

となると、我が国国民自身が自然に抱くラフで型の整わないものは、自然とネグられ、その行き場を失い、水面下に潜ることになってしまいます。

ところが人間というものは、逆にその型の整わない自然なもの、つまり「本音本心」を知りたがるものなので、それを求めて「カッコよさの維持上」或いは「カッコ悪さの隠蔽上」表立ってはできない探索行為、即ち「重層的裏読み行為、逆張り行為、気づかぬ振りのチラ見行為」が始まることになるようです

(これは譬えていえば各々の日常全てが、片や、自国(自分)の体裁、大義名分を繕いつつ、片や、相手の弱みに付け入るすきを虎視眈々と窺っている国際会議上での外交代表部全権責任者のようなもので、一瞬たりとも気の抜けない駆け引き(緊張)の連続となります)

そんなことを行住坐臥やっていては身が持ちません。なので、いっそのこと

「カッコなんかつけず、細かいこと、ぐちゃぐちゃ言わないで、大らかにラフも認めろよな!!

と周りに言い放ってしまってはどうでしょう?

本来、それだけで済む話が、あれよ、あれよという間に「とんでもなく御大層」になってしまっているような気がします。

事業の成功にしても小さな物は其処かしこに数多あるのに「一代にして年商ウン千億」じゃないと成功とは認めない風土が、却って「起業しようという思い」の芽を無言のうちに摘んでしまっている様な気もしております。

蛇足ながら、ですが。