2020/9/21-2

(うとQ世話し 想像するに余りある)

「想像するに余りある」

相手の苦悩、苦境、苦渋、困難、悲痛な状況や立場、身の上。

この「想像するに余りある」の「想像力」が欠けていた場合、どうなるか?

例えば、「想像力という能力」ではなく、想像するだけの「経験数、経験幅」を持っていない、想像する元となる「周囲への観察の蓄積」がない、想像力を働かせる前に常にそれに先んじて「正解や対処ノウハウ」を与えられてばかりいる。例えばマニュアル。

なんか4行目以降の部分は、何処かでよく見る風景ではないでしょうか。

経験数や幅については、過度の安全安心指向から「危ないことや冒険」はその安全が100%保証されない限りさせないとか、周囲への無関心や視界の狭さは「歩きスマホ」のことを指している様にも見えますし、最後の一例は「時間制限内」という縛りから、自分なりに或いは深く考える時間をまず省いていきなり解き方や効率的な覚え方をすぐさま伝授する学校や会社研修の姿に見えませんでしょうか?

これでは、相手を思いやり、慮って(おもんぱかって)、その苦悩、苦境、苦渋、困難、悲痛な状況や立場、身の上をわが身の事として受け止め、それをその時に「自分の想像力で想像してみようと最大限努力しても」それに及ばず、ついには

「想像するに余りある」

と言わしめるような若い人を育成することなど、言動(理念)と実際(社会システム、風潮)が正反対の様な今、出来ようはずもないと思うのですが。

どうなのでしょう。

若い人は混乱するばかりだと思います。

それこそ若い人の混乱は「想像するに余り」あります。

2020/9/21

(うとQ世話し ニューノーマル探しの取っかかり方)

ニューノーマル(新常態)という前に、そもそも「常態」とは何かといえば

「これが自分にとっての当たり前(フツ―)」と言い換えられるとすると、ニューノーマル(新常態)というのは、取りも直さず

「その人にとっての新たな当たり前(フツ―)」という事になります。

つまり、ニューノーマルの発見、獲得、確立にあたってまず必要なのが

「今ある当たり前(フツ―)、今の生活(行動パターン)の総ざらい、総点検」

そしてそこから深堀を始めて、次はその生活(行動パターン)に箍(たが)や枠や型を嵌めて縛っている「自分の意識、認識や価値観」(属している社会の価値観であっても、それを受け入れているのが自分だとすると、自分が属する、その社会の価値観も含めて)の把握。

そのために有効なのが「今を自問自答」し続ける事。

曰く

「それって、なんで?それって、どうして?それって、ほんとに、ほんとに、ほんと?」

を何度も何度も繰り返し尋ね続ける。

よろしければ、一度お試しくださいませ。

2020/9/19-2

(うとQ世話し 新授業法実践 当店流ニューノーマル語の誕生 )

一昨日考えた新授業方針と直前に書いた記事「幾ばくかの救い」の内容に従って、本日は早速それを教室で実践してみました。

まず、外国人従業員のひとりを黒板の前に立たせて先生にしました。

当人は、思いもよらぬ事態に(昨日説明したにも拘らず、本当に翌日からやるとは思ってもみなかったようです)

「えぇっ!?ワタシ、ナニスル???ワカラナイナ!!」

と大慌て。

「お前ら、先生、うるさい、うるさい、言うが、ここにスタンド(立つ)するのが大変なの、分かったに、あん?」

そういって無理やり押し切って従業員を立たせたまま、今度は自分が椅子に座って

「今日はワシが生徒や。質問するで!!えぇか?」

「ナニ、ナニ、ナニ、ナンヤネン?」

「ティーチャ―(teacher)教えて、ネパール語でお金(金銭)ってなんていうのや?」

「オカネ?」

「英語のmoneyのこっちゃ」

「オカネは、ポイシャ(と訳の分からないネパール文字で書きました)」

「じゃぁ、税金は?英語のTaxのことや」

「カル(同じく訳の分からないネパール文字で書きました)」

「さよか」

で、そこまで来て今度は自分が

「英語でmoney。日本語でお金、金銭。ネパール語でpoisha(実際にはネパール文字板書)

 税金は英語でtax。日本語でzeikin。ネパール語でkal(bill,vat)(同様板書)

どや、これやと英語アルファベット文字26、ネパール文字36、日本語のひらがな、カタカナ、当用漢字含めて2000文字位。タイヘンやし?特に日本語の漢字。

せやけど、これを全部アルファベット26文字で書いたらどうなる?

Tax, zeikin, kal(bill, vat)

アルファベット26文字だけで3か国語全部書けるやし?あん?

ワシが三つのうちどれか書いて、お前がそのうちどれか分かれば話簡単に通じるやし?それにこうやればお互いに3か国語いっぺんにおぼえられるし。

しやから今日からは、ワシは日本語、全部アルファベット26文字で書くで。

漢字は全く使わんから安心しぃや。みんなもネパール語、パキスタン語、アルファベットで書きや」

当人以外、他のスタッフからも一種のどよめきのようなものがあがりました。

ここに「当店流ニューノーマル語」が出来上がりましたが、逆に言うと、彼らはそれ程、日本語、特に漢字に苦しめられていたという事なのだろうと理解致しました。

追記)

スタッフから最後に注釈。

Poisha はcoin,kozeniのことで、osatsu, billsrupaiyaだそうです。ご参考迄。

 

2020/9/19

(うとQ世話し 幾ばくかの救い)

「とにかく書類が多い」

コロナ禍で大きな打撃を受け、その中での生き残り策の策定や実行で忙しくて仕方がないのに、詩人の立原道造作の「丸の内ビル?」の一節ではありませんが

「出てくるわ、出てくるわ、どんどんどんどん出てくるわ」恭(うやうや)しく整えられた書類提出依頼の数々。

何で我が国は、こんな状況下に於いてすら、官民を問わずこれほどしゃっちょこばった書類の提出が多いのか?

自分の推測では、恐らく「様式美愛+威厳誇示+慣行という惰性」からではないかと。

それでも日本人の自分はまだ慣れと耐性があるからいいのですが、在日就労外国人にとっては、この「漢字交じりの紙爆弾」による「昼夜を問わない十重二十重の爆撃」には「諦観マスク」装着以外にない様子。

それだけならまだしも、たまにはちょっとした事件になる場合も。

当店の例で言えば、従業員の前の勤め先での「住民税未納の督促」やら「給与差し押さえ通告」が突如、新規雇用主である自分の元にある日突然舞い込んで来たㇼ。

びっくりして当人や督促元、通告元に慌てて聞いて回ると、2例中2例とも「支払い契約」やら「未納請求」の漢字が読めないために、何が来たのかも拘らず、且つまた相談する日本人もいないためにほったらかしになってしまったままでした。

自分の店では従業員に「来た書類は一切捨てずに自分の処に持って来るよう」指示をしてあるのですが、そうでなかった場合、上記のような事態になってしまう訳です。

当人達にとってみれば「払う意思がない」訳でもなく「逃げている訳でもない」のに、ある日突然「罪人扱い」の文書がやってくる。しかもそれすらも分からないままに、土壇場詰まって事態が分かり、雇い主のこちらも四苦八苦。

日本人の自分ですら内容が複雑すぎて理解に困る程の内容とちょっとの違いで何度も何度も送付されてくる、その数の多さ。

当然彼らには全く分かる筈もない訳で。

だったら「日本語を習ってから来い」

とおっしゃるかもしれませんが、それを故国でできるのはお金持ちだけです。働きに来ているアジア系就労者の大半は貧しいから出稼ぎ、故国送金をしに来日しているのです。

そのような事もあって自分は自らの経験則から、その電話をかけてきた主に

「文書はせめて英語でも出して下さい。英語も分からないアジア系外国人には、漢字交じりの日本語文を全てローマ字表記文で書いて出してやって下さい。

例えば「住民税」なら「juumin-zei」と表記すれば、これは「tax()」の話だと直ぐに分かりますから。

彼らは日本語を音で覚えている場合が多いので、発音記号代わりのローマ字文を見れば、漢字交じり日本語や「文法的に正しい」英語なんかより遥かに分かりますので」

(もし、これが実現できれば、国は税収が増え、在日外国人は不要なリスクから少なからず逃れられ、日本人雇用主は相当量の手間が省ける、の三方両得)

でも、この電話の方はとても理解のある方で

「そういう現実があったんですか。全く想像もしていませんでした。少し検討をしてみます。上にもあげてみます」

それを聞いて自分は、そういう若いお役人さんがまだいらっしゃることに幾ばくかの救いを感じました。

頑張って欲しいものです。

2020/9/18

(うとQ世話し(続々)お客さまのアドバイスから「新しい授業形態」)

「今日から昨日までの日本語の授業は止める。替わって語学の授業をする」

そういってナマステ別館堂に集まった外国人従業員の前で、黒板に板書してあった

Japanese language lesson」の「Japanese」を消して「Language lesson」だけにしました。

そしてその下に矢印で引き出して「communication」と書きました。

当然三人とも怪訝な顔つきをしました。

「何のことだかさっぱり分からない」

で、そこから説明を。

「いつも自分が先生だった。いつもみんなが生徒だった。それでいつも自分がみんなにプレッシャーばかり与えていた。それでは面白くないだろう?」

みんな何のことか分からない也にも「なんだ?なんだ?」と身を乗り出してきました。

「だから今日から、時にはみんながネパール語やパキスタン語の先生になってボスの自分に教え、時には自分が反対に日本語を教える。替わり番子にするのや」

で更に

「それを今度はお客様とみんなでもやってもらう。お店で」

更に

「席に案内して日本語で「どうぞ」といった後に「ネパール語ではクリパヤと言います」というのやで。うるさいと思う人もおるが、興味を示す人もおる。興味を持ってもらったらみっけもんや」

この辺からみんな身を乗り出してきました。

「サインボードの店頭黒板には「今日のネパール語」を毎日日替わりで書くんや。何を書くかはみんなで相談しよか」

そのうち笑顔がこぼれてきました。

「アイデア、アイデア、オモシロイ」

という訳で、本日から新しいコミュニケーション授業と実践を開始いたします。

追記)

しかし、よくよく考えてみたら、元々3年前に現在のナマステ別館堂で開講していた「すすき野留学」の「カリーを食べながら英語も学んじゃおう。へたっぴぃ同士で教えっこし合おう」に、英語をネパール語に差し替えて、周回遅れで戻ってきた(辿り着いた)だけでした。

それに気づくのに、なんと遠回りをしたことか。

我ながらホンマ、情っさけなぁ。

2020/9/17-4

(うとQ世話し 待ったなし!! )加筆版

AI、デジタル」に取り残され「英語」に取り残され、基礎学問である「数学、物理」で後れを取り、自発性、活発性のバロメーターである「起業意欲」で主要62カ国中最下位を拝し、気が付けば「いつか来た道」で「あぁ、そういえばそんな国、在ったみたいね」

と後代から言われることになりかねない状況が、今の我が国のような気がしないでもありません。

物事の道理としてある「適者生存に向けた不断の努力、革新を行わなければ、それまで大きかろうと強かろうと、長く続いていようとそれ迄は滅びたことが無かろうと、適さなくなれば一つの例外もなく、あっという間に没落滅亡してしまう」という極めて単純な歴史上の道理を忘れているような。

「万世一系」はともかくとして「神代の時代から続く紀元2600年だか2700年で世界歴代最長存続国家。絶対不滅の国と国民」という、これまでは確かにそうだった過去の遺産を、皆が無意識に安心の根拠にして、既に許容限度枠とその残された時間限度枠を超えてしまっているにも拘らず、あたかも「胡蝶の夢」が如く、実際には存在しない架空の「安寧安逸を貪っている」気が時折しております。

それこそいかにも「公平、平等に」あらゆる立場の人々が「我が国と国民は何があっても潰れっこない。だって特別な存在だから。

今までだって何度も潰れそうで潰れなかったし、いざとなったらまた元寇以来の神風だって吹くだろし」と、無意識裡にタカをくくっているか、

それよりは一歩進んで、意識野で気づいてはいても

「いいの。後代の事なんか。このまま眠らせておいて」と現実直視の苦しさや革新の困難、多大な努力から目を背けて「見て見ぬ振り」を敢えてしているか。

思うに前者の道理は、後者の現時点までの事象より遥かに強力で普遍的です。

そろそろ、この強弱大小関係を「認識のまな板」や「正視のまな板」の上に持ち出して、自覚的にスイッチを切り替えないと後者(我が国とわが国民)はいとも簡単に前者(歴史上の道理)に飲み込まれ、憂うる間も無く「過去に存在した歴史上の国家、国民」(卑近な言い方をすれば「置いてきぼり」「落ちこぼれ」国家、国民)になってしまいそうな気がして、最近少しジジイの寝覚めが悪くなっております。

ニューノーマルの発見、獲得は我々と後代の為にも「待ったなし」

一刻の猶予も許さないところにあるや、に思われます。

2020/9/17-2

(うとQ世話し ()お客さまのアドバイスから「遣ったもの勝ち」 )

コミュニケーション優先、heart touching(心に触れる)優先。

と前回書いた後で、不図ある逆転の発想を思いつきました。

「何も日本語を教えるのに、先生が日本人である必要はないな。反対に外国人が先生で、先生の国の言葉を教える。その際についでに日本語も覚えてもらう」

例えば、

お客様がお店に入ってこられた折に、外国人(直近の場合はネパール人)スタッフがお客様を席に案内しますが、その席をスタッフがお客様に手で示す時に

「どうぞ。どうぞはネパール語でクリパヤと言います。覚えてください」

と一会話する。

或いは反対に、お客様がコップの中のお酒を指して、

「じゃ、これはネパール語でなんて言うの?お酒は?」

「ラクシ」

するとネパール人は「お酒」という日本語を覚え、お客様は「ラクシ」というネパール語を覚えられる。

そう持ち掛ければ、お互いがお互いに先生であり生徒にもなる。そして、会話も弾む。

その前に、外の宣伝用黒板に「本日のネパール語」というのを日替わりで書き出してみるのも面白そうだ。

例えば

「本日のネパール語は、ミト。

日本語で、おいしい」

とか。

お客様に覚えてほしい単語(ネパール語)や、自分が覚えたい単語(日本語)を毎日考えてもらうことで、学習に興味を持ってもらうこともできそうだ。

スタッフも、単純だけれど毎日変化があるので、案外素直に面白がるかもしれない。

こんな風に考えると、なんかいろいろ発想が湧いてきて、自分自身も楽しくなってきました。

肝心要は、当のお客様がどう感じるか?

興味がわくのか、それとも煩わしく感じるのか?

しかし、結果はどうあれ、興味半分、実利半分ながら、何もしないよりはなんぼかマシ。

取り敢えず、何はさておき、試してみるだけの価値はありそうです。

上手くいけば、スタッフの遣り甲斐アップ、会社はコスト上積みゼロで固定費吸収力もアップ、で、尚且つ販促費ゼロで売上もアップ。

そして何より、お客様自身が追加料金ゼロで” 1 hour happy time”を楽しめる三方両得。

はて、さて、本当にそうなるのか?

これはもう、試してみるしかないでしょう。なにせ、やったもの勝ちですから。

2020/9/17

(うとQ世話し お客さまのアドバイスから)

あるお客様から

「いつ会っても「ゲンキ?」って同じ事ばかり訊く。新しい展開が何もない。そんなワンパターンばかりじゃ、つまらんでしょう?来る身にしてみれば」

と言われ、同じ言葉の中に微妙な違いを読み取る事にいつの間にか長けてしまっていた自分の「お客様との乖離」に気づき、早速、休憩時間の内、15分だけを使って、外国人従業員に再度の日本語教室を始めました。

「お客さんはお前たちと話したがっている。もっと日本語がたくさんしゃべれるようになれば、売上ももっと上がる。喋れないとどんどん下がる。だからまた始めるぞ」

実は昨日がその第一回目の授業でした。

で、再開するにあたっていろいろ考えた挙句に、前回の日本語教室が定着しなかった反省を踏まえて、言葉数よりもコミュニケーション優先、スキル(技量)よりもheart touching(心に触れる)優先で行こうと思いました。

それで

第一に「言葉数はそんなに急には増えない。増えない分、表情とアクション(振舞い動作)で補え」

第二に「ゲンキ?ばかりじゃだめだ。平均より気分が上な時はゲンキ?と訊いてもいいが、平均より下の時は、却ってuncomfortable(不快に)感じられてしまう。そういう時は、ダイジョウブデスカ?と訊け。これがワンパターンから逃れる手だ。

アツイ!!だけではダメ。外アツイ。タイヘンね。とか、外アツイから、気を付けてくださいね、をくっつける。くっつける言葉くらいはちゃんと覚えろ」

第三は「要するに、お客さんのことを心配して上げなさい。気遣ってあげなさい。それを言葉と表情と動作で示しなさい。そうしたらgood communicationができる。お客さんもスタッフもみんな嬉しくなる。お金もガッポガッポ入る」

そして最後に「ハートを使え。機械やAIには真似のできない、人間だけにしかできないことをやれ。コストダウン効率一点張りの無人店舗の反対をやれ。非効率極まりない十人十色の人海戦術100%だ。時流とは正反対のことをやれ。それをメインにアナ・デジでやる。それが我々の生き残る唯一の道だ。忘れるな」

話しを終えたとき、スタッフたちの目に前回とは違う、驚き半分、納得半分+なんか面白そうだ、の色合いが浮かんだのが見え

「やっぱりこれしかないようだな」

と進む方向の肚を決めました。

2020/9/16-2

(うとQ世話し お客様がおっしゃるので

お店のお客様のおひとりが、弊社の企業理念を皆さんにご紹介したらどうですか?と盛んにおっしゃるので、お言葉に甘えて以下、ご紹介させて戴きます。

 

企業理念:さくこら(corporation concept “sakukora”

 

名前の由来は「コラボすればお互いに桜のように満開の花が咲く」から来ています。

「さくら咲くコラボレーション」を短くして「さくこら」

 

争いが消えないのはなぜ?

それは一人一人に「差がある」からです。その差を認め合わずに否定するからです。

差をなくせば争いは消えますが、差がなければどっちを向いてもみな同じ。街を歩いていておんなじ顔の人ばかりぞろぞろやって来れば気持ち悪いでしょう?新しい発見がなくてつまらないでしょう?

お互いの差を差として認め、受け容れて、その差を活かし合う。悪いところは直し合う。それがコラボ。

木の枝はまんべんなく四方八方に伸びます。それが一方向ばかりに伸びて、混み合ったらお互いの枝が邪魔をして日差しが足りずに木の枝は枯れてしまします。四方八方に伸びるからまんべんなく日が当たって生き延びられるのです。混み合わないから争いも減ります。その四方八方を許すのもコラボ。

 

「さくらさく」は合格通知の電文文言。ただし、受験ではなくて、命が目いっぱい花開くという意味です。花が咲いて実がなって、それが地面に落ちてまた芽が出る。そういう循環、エコサイクルをも意味しています。

 

あと、事業体(チーム)を意味する、こらぼ社の「社」は会社の社ではなくて「やしろ」の意味です。お祭りの行われる場所がやしろ。集まる人は社員ではなくて「社中」

さくら踊りなどを踊るひとを社員とは呼びませんよね。社中と呼ぶでしょう?あれです。

 

主に社会人になる前、あるいはなりたての若い方と仕事を退職された方を結んでそれぞれを活かし合う場になれればいいなと思っています。

 

2017/4/6 策定

2020/9/16一部文言改訂

2020/9/16

(うとQ世話し「うんざり」から「自分の中に軸がない」を経て「ニューノーマル考」迄)

「うんざり」

という言葉を英語に置き換えると「too much enough

それを今度は日本語に再度置き換えなおすと「あまりに十分すぎる(で、うんざり)」

要するに「多すぎる」「し過ぎ」「在り過ぎ」「過多」「飽和以上」という事です。

度重なる失敗や繰り返される不具合、不都合の感覚よりも、不必要なもの、余計な物、しなくてもいいようなものが多過ぎる感覚の方が近い気がします。

或いはもっと日常の一コマ的に言うと

「毎日同じメニューが出てくる」「どのチャンネルに切り替えても同じ番組をやっている」という「繰り返し」と「代わり映えの無さ」

更にこれを絵画的に表してみると

「一本立ちした木が、多くの蔦に絡まれて身動きできなくなっている絵」

要するに「がんじがらめ」

いい加減やめたいのに、止められない、というより抜け出せない。

悪路のぬかるみに嵌ったジープがいくらエンジンをふかして車輪を全力で高速回転させても「空回り」ばかりして抜け出せないのはおろか、逆に益々深みに嵌ってしまう「苛立ち」と「徒労感」

即ち「閉塞」

「なんで自分は必要のない虚勢ばかり張っているんだろう」という、気が付くと既にやってしまっている虚しい反射神経に実は「うんざり」

「なんで自分は人に合わせて意味のない相槌ばかりうっているんだろう」という陽炎の様な当たり障りの無さに実は「うんざり」

「なんで自分は人の目線に脅されて、黙ってみて見ぬ振り、無関心を装って逃げてばかりいるんだろう」そんな自分の十重二十重の事細かすぎる過剰防衛に実は最もうんざり。

それで

「自分の中に軸がない。他人の目線の中に軸がある。これでは人生辛かろう」

となり、逆に今回のコロナ禍で、その辺の「がんじがらめ」に穴が開かないか?縛りが解けないか?換言すれば「ニューな変化が起きないか」を無意識世界で内心密かに期待している

それが

「ニューノーマル考」

まで、多くの方々に拙記事を読んでいただいた理由?

実は、上記の「うんざり」「自分の中に軸がない云々」「ニューノーマル考」は直近の自分の記事の中で、断トツのご購読数を戴いた記事の略式タイトルの抜粋綴りでした。

それを俯瞰してみて、何となく以上のような事を想像致しましたので、ご報告がてら、本日は感想ベースの推論を記してみました。

2020/9/14-2

(うとQ世話し たったそれだけの事で、セミナーまでするの?)

ネット上では「成功法則伝授のセミナー」のような意味のタイトルを冠した講習会が、たくさん見つかります。

砂山の砂、満天の星空の星を数える位、うんざりする程の数。

でもこれは、何も講習会を、お金まで取って開催する程の量でも技術でもない気がします。

とても簡単。

ならば、成功の法則って何よ?言ってみんしゃい。

「成功するまでやり続ける。つまり諦めない事」

そして

「成功したら、その成功法則が全く当てはまらない完全に別な分野に一からトライする事」

この二つを何があっても、ブレずに、維持し続ける事、だけでしょう、肝は。

(注:現実問題としては、その前に、そこまで続けるための資金調達をどうやってするか?その際に貸し手を納得させるビジョンと、それを何度転んでも次の手を繰り出せるだけの数限りないアイデアと自分の人格的信用力をどう産みだし、どう示せるか?があります)

なので、上記一切を含めて、A4一枚で済んでしまいますから、お金を取って迄、長時間の講習会など開く必要は更々ないと思うのですが。

どうでしょう?

嫌味かな?

もう法則、ここに、タダで書いちゃったし。

2020/9/14

うとQ世話し 交流三種の神器とその使い方(案)

何よりも気になるのは外国人従業員の事でございます。

以下。

外国人と話をしたり仕事をしたりする上で、もっと一纏めにいうとコミュニケーション(意思疎通、交流)をする上で一番有効なのは、自分の経験則上「数字」「図表」「フロー(流れ)図」を使う事です。

いずれも言ってみれば世界共通言語になり易く、下手をすると宇宙共通言語としても使えそうなものです。これを一言で言うと

「ビジュアライズ(見える化)」

言いたい事、伝えたい事をこの3つに置き換えて、自分の店の場合は外国人従業員に黒板に板書を毎日行いました。

しかし、その折大切だと思えた事は、いきなり結論の数字、図表、フロー図を見せる(ビジュアライズする)のではなく、紙芝居(紙めくり)方式で順々に組合せながら書いていく事でした。

但し黒板は紙めくりには向いていないので、説明や時間の経過を追うに従って順々に書き足していき、最後に

「しやからこうなるやし?」

というやり方を行いました。

これは、説明者側がこの方法に辿り着くのに可成の時間を要しましたが、急がば回れで、最近では意思伝達がmax 5分以内にほぼ90%出来るようになっております。

一方我が国の大きな企業やお役所の文化は、是とは全く異なる「書き文字文化」「書面による通達文化」が大半です。ネット時代でも紙タイプ文字がスクリーン上の電子文字に替わっただけで、実質は何も変わっていない様です。

「書面で通達(通知)を出しただろ。だからちゃんと読んで、読んだら直ぐにやっておきなさい。だって通知を既にちゃんと出してあるのだから」

と一方的な場合が多いようです。

これは、発信元が楽な分、受け手は相当なる負担を負う事になります。

ですので、受け手である漢字を含んだ文章を「解読できない絶望的気分」になっている在日外国人にとっては、ほぼ致命的な事態を招いて仕舞う事にもなりかねません。

現場に立つ者としては、この点をかなり憂慮して居る次第。

「ここは日本なんやから、それに従うのは当たり前やし」

というのは簡単ですが、それでは交流をする上で、又は交流のロス、非効率非効果を抑える上で何の役にも立たない気が致しております。

コロナ禍後こそ「我が国の主流民族」である我々が一歩下がって「耳を傾ける謙虚さを持つ」必要があるのではないのかな?とおもっております。

2020/9/13

(うとQ世話し 夏休みの宿題の

短い夏休みを終えて。

「勝ち組」「負け組」

「成功」だの「失敗」だの。

「成功の絶頂期」には、既に「失敗の最大要因」を孕んでいると以前に書きましたが、仮にそれが正しいとすると、死ぬ間際を「勝ち組」で「成功裡」に終えるという「タイミング合わせ」は非常に困難で、しかも稀な確率でしか実現しない気が致します。

そんな極めて稀にしか実現しない出来事を一生かけて注視し乍、神経を尖らせ、しかも、そこまでした挙句に、そのような事は滅多に生起しないという当たり前の事で、多くの人々を無駄に落胆させるだけの結果に終わる位なら、いっそのこと、

死ぬ間際になって

「まぁ、いろいろあったよな。成功もあったし失敗もあった。しかし兎に角いろいろはやって来た。いろいろやって来られて面白かった。それで十分楽しめた。これで充分だわ」

と言えるような「幅を持たせたしめくくり方」の方が「ふつうの人」である我々にとっては、いいような気がしてきました。

なので、これ以降は「こうやったら成功する」「これが唯一の正解」などというような「虚しい」ノウハウ開示記事等には一切手を出さず

「こんなことをしたら、こうなったよ」

という事(観察、実験報告)だけ書いていけばいいのかな?と思い始めました。

そうして、上記のような暮らし方を、もし仮に楽しみたくなったら、一つの方策として、これ(観察、実験報告)を手に取るか取らないかは皆様方や後世の方々次第。

いらなければ「どうぞお捨てくださいまし」

いるなら「どうぞご自由にお使いくださいませ」で。

それを自分の、この世への「置き土産」にしようかなとも、思い出しました。

以上、簡単ではございますが、短い夏休みの宿題(書く立ち位置)の「答えらしきもの」で御座います。

2020/9/10

(うとQ世話し 夏休み頂戴のご連絡 )

今の気分を一言で言うと

「もう、うんざり」

手垢にまみれたようなことを、毎日毎日見聞きさせられて「うんざり」

一つのことに10から20視点、あらゆる角度から事細かに「分析をして戴く」ことにいい加減「うんざり」

そうして、自分自身が書いていることも、その数多ある分析の一つであることに最も「うんざり」

自分も過多な分析の御先棒を担いで「事実汚し」に加担し「目くそ鼻糞を笑う」でしかないことに心底「うんざり」したので「目を少し遠くへやる」ために数日間、この「世話し」の夏休みを頂戴させていただきます。

突然の身勝手は重々承知しておりますが、本当に今の自分に「うんざり」しちゃったので。

ごめんなさい。

2020/9/9

(うとQ世話し なぜ自分の中に軸がないのか?いつの間に他人目線の中に軸が移ってしまったのか?答えは幼少期にあり?)

「何故、自分の中に軸がないのか?」

「いつの間に、他人目線の中に軸が移ってしまったのか?」

を、つらつら考えてみていたところ、何となく次の言葉達が浮かんできました。

曰く

「出る釘は打たれる」「壁に耳あり障子に目あり」「触らぬ神に祟りなし」「臭いものには蓋」

そうして、その最後の言葉からの連想で浮かんだ「極めつけ」は、幼少期の排便の躾の厳しさでした。

「何度言ったら分かるの!!おもらししちゃダメでしょ!!おもらししたらお母さんが恥をかくんだからね!!

自分の背後から響くその声。その監視の目。

そうしてその核心は

「親が恥をかく」の「親の恥」の「恥」

もうこの段階で、子供は「恥」という最重要概念を教え込まされ「人の顔色、しかも最近親者の顔色すらも窺うようになってしまう」のではないか。

そうしてその後に、上記の言葉たちの順番を反対にすると

「臭いものには蓋」から始まり「触らぬ神に祟りなし」更に「壁に耳あり障子に目あり」と続いて最後に「出る釘は打たれる」から「見ざる言わざる聞かざる」となって沈黙してしまう。

即ち

「子供である自分に正当性はない。幼児期に於いて「見放されたら大変」になる親に殺生与奪の権限がある。つまり自分以外の他者目線の中に全ての権限がある」

と、無意識裡に教え込まれる。

想像してみてください

排便で失敗しないかどうかと緊張しまくっている、その後ろから「怖い親の目」に晒され、あたかも平均台の上を背後からナイフを突きつけられながら歩くような幼子の焦りや体の強張りを。

「親=恥=恐怖=沈黙」

そうしてそれと引き換えに失うのが「自分の声=自信」

結局「恥の元」である自分が「自分の声=自信」を持つのは大きな間違いだから「出る釘は打たれる」ことにしかならないとなり「自信のなさ」と「沈黙」だけが残る。

つまり「自信のなさ」が「他人目線の中に自分の軸を明け渡している」

或いはその反対に「他人目線」が「自信を持つことを非難している」とも。

最後にこれらを別の言葉で纏めてみると

「親がマニュアル通りにできないことを恥じ、子も又マニュアル通りにできないことを恥じる」

そこに大元の原因があるような気がしております。

で、最後の疑問

「じゃぁ、マニュアルって何?」

手引き?定型?

又々ここでも、我が国固有の様式(美)?

2020/9/8

(うとQ世話し 誤解覚悟で その4 )

以下にお話しするのは「アナクロ復活奨励話」ではなく「姿勢点検」のお話です。

本日も又、誤解覚悟で申し上げます。

「百聞は一見に如かず」

例えばネットで見る写真や動画も含めて「聞」と定義すると、ネットの情報はほぼ100%が加工2次情報(引き回し)なので、それよりは自分の目や耳で確かめた身の回りの現実世界の1次情報「見」の方が、自分にとっての「オリジナル」を得る確率は遥かに高いという風にも解釈できそうです。


「習うより、慣れろ」の後半文言を

「習うより、盗め」と敢えて替えてみると

相手が自分に気づいて自席にやってくるのを待ち、何も言わずとも、痒い所に手が届く様なおまかせメニューで「習う」より、学習方法もわからないところからスタートし、相手の技量を観察によって盗み取って分解し、自分なりに原理原則を組立てて「自分最適解」を見出す方が、遥かに頭を使い、工夫や推理推論を凝らす分、深く身に付くことは想像に難くない気がします。

昔気質の職人は、確かに「意地の悪い一面」もあったかもしれませんが、多くの例を見たところ、それ以上に「どうやったら確実に、しかも相手本人の為に最適な形で伝承できるか?」を自身の体験から熟知していたのではないかなと想像しております。

まず相手が上であるという「謙虚さ」がなくてはならない。

次に「教えてくれぬなら、それでよし。それでも俺は」という「盗むほどの意欲」がなくては、ならない。

三番目には「盗んだものを分析し、推理推論を重ねて原理原則を発見する」観察眼と知恵がなくてはならない。

第四には「それを自分流にアレンジする柔軟さとオリジナリティ」がなくてはならない。

そして最後に何より

「盗んでやる」と「盗めるものなら盗んでみろ」の「真剣勝負」と、その実「速く盗め、俺が目の黒いうちに早く盗んでくれ。そしてもっと先に行ってくれ」の裏に隠された「慈愛」が人(後進)を育てたような気がしております。

席まで来て分かり易く教えてくれなきゃ、勉強なんかしてやんねぇ」というのに、言われるままに「のこのこ出向く」ようでは、教える側、教わる側も、相互の先が見えた、も同然のような気もしております。

以上を踏まえて

自耳自眼見聞(じじ、じがんけんぶん)に基づく「自主自発」での自自「考」「行」

即ち、個々人の既成概念、現常識からの「自主独立」

これからは、それが何より大切な気が致します。就中、コロナ禍の向こうの「ニューノーマル時代」においては。

2020/9/7

(うとQ世話し 痛切に)

若いころ読んだ本で、書かれた方がどなただったのか、はたまた何という題名の小説だったのかはまるで覚えておりませんが、ある末期がんを患った老夫が病院のベッドで、その痛みに耐えかねて嗚咽を漏らした時、その患者さんの年老いた奥さんが

「何も言わず黙ったまま、何度も何回も夫の背中をさすっていました。そうするよりほかに慰める(痛みを和らげる?)手立てがなかったのです(手立てを思いつかなかったのです?)」

というような一文がありました。

その一節を目にした折、それまで読んだ、どの本より、こころに「ずっしん」とくるような、深く、重たい感銘を受けました。

今日、不図、何故か、長らく忘れていたその一節を思い出して

「答えは見つからずとも、そのようなことが自然にできるひとになれたらいいなぁ」

と思いました。

自分に今一番欠けているものは「それだなぁ」と痛切に思いました。

 

追記)

本日より「うとQブログ」改め「うとQ世話し」に改名いたします。

理由は「何となく」でございます。

2020/9/6

(うとQブログ 単なるマゾ?かも)

ずいぶん昔の記事で

「得意なことで成功するよりも、苦手を克服した時の喜びの方が遥かに大きい」

という意味のことを書いた記憶があります。

会社に入ったものの型に会わず上司からは

「お前に対する扱い方を変えなくちゃならんようだな」

と言われ、その後猛烈なパワハラに会ってうつ病になりました。

その大きな会社内でうつ病になり、その大組織内では、なかなか立ち直れずにい自分を見て親父が

「どうやら俺はお前の進路指導を間違えたようだな。好きにさせておけばよかったのかもしれない」

と言いました。

その後、長期罹患のうつ病が元で、奥さんと離婚した後で担当の精神科の医師が

「離婚にはいい離婚と悪い離婚があるが、あなたの場合は、いい離婚だったようだ」

と自分に個人的な感想を漏らしました。

であるなら、結論として「大きな会社などには鼻から入らず、自分なりの得意分野で生きていけばよかった」となるかといえば、そうとも言えない気がします。

むしろ自分の得手、得意分野とは全く正反対の「苦手、不得手」分野の中に身を置いた効用というものは、必ずあったような気がしております。

そうしてそれを克服(得解会得)した折の喜びの記憶が、今の自分の、矢鱈と難問にばかり挑みたがる「難問愛好家」の元になっているような気がしないでもありません。
もちろん自分の完全なる勘違いで「単なるマゾ体質」というだけなのかもしれませんが。

2020/9/5

(うとQブログ カッコつけなきゃ楽になる)

我が国国民の中にある最強位基底概念は、道徳でも倫理でも法律でもなく「美学・美意識」である。

一体何のことを言っているの?と思われる方も多いかと思います。

そこで、もう少し申し上げますと

「様式美」「型」「スタイル」

で、更に申し上げますと

「カッコ」(カッコいいか悪いか)です。

しかも、その「カッコよさ」の幅、範囲たるや極めて「狭く」「精緻」且つ「厳密」で、殆どオリンピックの超難度技、完璧美技実現レベルであり、そのターゲット幅を少しでも外れると「何の価値もない」無意味なものとして却下される極めて「峻烈峻厳」なものといえましょう(反対に言えば「カッコわるさ」の蔑み方が半端なく物すざましい)

なので、そう負いそれとは手を出せなくなってしまいます。しかもお互いがその出来不出来について監視し合うという「日常的監視網」に晒されているとすれば、益々の事となります。

少し話を元に戻しますと、この「様式美」のもたらす例として挙げられる物に、我が国の英語教育の過度に厳密な文法規則の適応やら儀式の重用、お役所における文書、書面、手続きの「何をおいても守るべきルーティン」等があります。

今コロナ禍に於いて、これらに頻繁に接する機会が増えると、この様式美に基づく、わが国民の几帳面さ、生真面目さ、丁寧さがいい加減いやになる時があります。

「ここまでやらないといけないのか!!」「何をそう儀式ばっているんだ?」「もっとラフにできないの?」

縦横斜め、上下左右すべてに矛盾無きよう整合性が取れて初めて「よし」とする「様式美重用癖」 

外国人は様式美(フォーマル)をたまにはカッコいいと思いますが、ラフはラフで楽しんでしまうのに対して、我が国国民はフォーマルだと安心しますが、ラフとなるとむしろ不安や警戒心を抱いてしまうようです。

もっと言えば相手が自分に対してフォーマルに振舞うと納得し、ラフに振舞うと何か一つ下に見られた、粗雑に扱われた、いや馬鹿にされた、と侮蔑感を感じるようです。

となると、我が国国民自身が自然に抱くラフで型の整わないものは、自然とネグられ、その行き場を失い、水面下に潜ることになってしまいます。

ところが人間というものは、逆にその型の整わない自然なもの、つまり「本音本心」を知りたがるものなので、それを求めて「カッコよさの維持上」或いは「カッコ悪さの隠蔽上」表立ってはできない探索行為、即ち「重層的裏読み行為、逆張り行為、気づかぬ振りのチラ見行為」が始まることになるようです

(これは譬えていえば各々の日常全てが、片や、自国(自分)の体裁、大義名分を繕いつつ、片や、相手の弱みに付け入るすきを虎視眈々と窺っている国際会議上での外交代表部全権責任者のようなもので、一瞬たりとも気の抜けない駆け引き(緊張)の連続となります)

そんなことを行住坐臥やっていては身が持ちません。なので、いっそのこと

「カッコなんかつけず、細かいこと、ぐちゃぐちゃ言わないで、大らかにラフも認めろよな!!

と周りに言い放ってしまってはどうでしょう?

本来、それだけで済む話が、あれよ、あれよという間に「とんでもなく御大層」になってしまっているような気がします。

事業の成功にしても小さな物は其処かしこに数多あるのに「一代にして年商ウン千億」じゃないと成功とは認めない風土が、却って「起業しようという思い」の芽を無言のうちに摘んでしまっている様な気もしております。

蛇足ながら、ですが。

2020/9/4-2

(うとQブログ 地球様の相当なるお怒り)

既に何度も書いたことですが、改めてここで再度申し上げます。

コロナ禍、異常猛暑、そして明日、明後日の、伊勢湾台風並みの超ド級10号の発生。

ウィルス禍の間隔はもう少しあるとしても、猛暑と猛烈台風はもはや毎年恒例となったしまったことが指し示しているのは、たった一言「地球から人類への強烈な警告、イヤ最後通告」ではないかと。

「自分たちにとってだけの快適さを追求するために、もうこれ以上地球を壊すな。いい加減に慎め」

もっと言えば「(今の定義での)経済活動を減らせ」

本来人間が全部自分でやっていたものを、産業革命以降150年ほどかけて人間以外のものに代替させてきた。例えば機械などに。

それを代替させればさせるほど、或いは代替させるアイテムが増えれば増えるほど、人間は楽になったものの、その分、代替物の発するエネルギー(熱量)はどんどん増え、地球を傷つけるに至った。

代替物が増えるにしたがって人口は爆発的に増え、更にそれが都市という一点に集中したため、あたかも都市という槍が天を突くような形でオゾン層を突き破り始めた。

さらに増えた代替物のアイテム数に勝るとも劣らないレベルで、代替物(商品)の買い替えサイクルの短縮化が破壊を深刻なものにしていった。陳腐化抑止、価格下落抑止、需要喚起の名のもとに、大して差のない「新商品」という名のごみの山を排出し続けた。

地球は言っているのでしょう

「そういうレベルでしかない自分の首を絞めるような経済活動など、いい加減に止めなさい」

と。

「代替物(物理的物質)にエネルギーを発散させるのではなく、人間自らがアタマとこころと身体を使った「地球を壊さない生き物としての自分のエネルギー(心理的熱量?)を発電放出させるように切り替えなさい。そしてそれを含めた総量を(新定義=ニューノーマル)経済と呼びなさい」

と強く警告しているような気がしてなりません。

何処の国、どこの陣営などと悠長なことを言っている場合ではない!!そんなの地球上に生息する数多ある生物の中の「人目人科同士」の単なる内輪もめでしかなかろうが。猿山のボス争いでしかなかろうが。

そんなことを吐き捨てるようにして地球様が言っているような気がしてならないのです。

2020/9/4

(うとQブログ 自分の中に軸がない。自分の軸は他人目線の中にある。これでは人生辛かろう)

昨日の記事(これはSNSには上梓せず。サバイバル日記9月の巻(10月発刊予定)に掲載)を読み返してみて、ふと思ったのですが

「結局、軸(と視界)が自分の中の何処にも無い」

だからふらふらするし、落ち着かないし、逃げ腰になる。

「軸」については、まず人の目線がとにかく気になり、それに合わせて自分を作る。なので、軸(=殺生与奪の権限)が自分の外にあることになって、これがふらふらと落ち着きのなさの元になる。

「自分の主が自分ではない」から。

次に「視界」に関しては、これは目線を発する側の話で、自分はさておき棚に上げ、というより自分に関する不都合は、十重二十重の捻りを入れて自分の背面、後方、奥深くに隠匿したうえで、界最上位特別審査官(員)として、実にハイレベルな審査内容で、のっけから相手の対象規定演技評価箇所(=欠点や粗)の減点項目を探し始める。視界の中にあるのは「交流すべき隣人」などではなく「高得点獲得の為なら何でもいいなりになりそうな嘆願者」との関係のような雰囲気。

冒頭の前者は後者にもなり、後者になるからこそ前者の振舞いにならざるを得ない。

これは少し言い方を変えれば、する方もされる方も「自分をさておいて」の仮想代理空間(アバターワールド)のようなものなので、仮想である分、実の結びようがないことにもなります。

一体この悪循環はいつから始まったのでしょうか?

まぁ、いつから始まったか?何故そうなったのか?は別として

「人がどう見ようと、自分はこれで行く。言いたい奴には言わせておけ。全員に好かれることなど決してないのだから、それで一向にかまわない」

と言い切ってしまえば上述の悪循環など飛散霧消するような気もするのですが、どうなんでしょうかね?

自分はそれが、少なくとも我が国のニューノーマル始まりの核心的条件の一つだと思っているのですが。

2020/09/3

(うとQブログ 新刊本発売日に関する訂正とお詫び)

先にご案内申し上げました「コロナ禍同時進行執筆 ナマステ別館堂主人 ニューノーマル探索サバイバル日記 8月の巻」に関しまして

当初発売日を9月5日と申上げましたが、内容ではなく手続き上での未了部分の再登録及び更新確認に思わぬ時間を要しているため、発売日を数日延ばさざるを得なくなりました。

Amazon kindleからは更新に48時間から72時間を要するとの回答を得ておりますが、日時が特定されているわけではございませんので「数日延ばす」との表現になっております。

 

読者及びサイト訪問者のみなさまへは、結果的に「ウソをついたも同然の事態」となりましたことを深くお詫び申し上げますとともに、発売日が決定次第、再度ご案内申し上げます。

 

誠に申し訳ございませんでした。深く陳謝申上げます。

 

責任者:ナマステ別館堂主人 うときゅういっき

2020/9/2

(うとQブログ ニューノーマルサバイバル術「スッポン的性格の勧め」とシリーズ「8月の巻」発刊のご案内)

「石の上にも三年」とか「継続は力なり」というと「辛抱」「忍耐」「我慢」などという言葉が浮かびがちですが、自分は「諦めずに続けていれば、いくらなんでも、知らないうちに、それ相応の力が付くだろう(効果が出てくるだろう)」くらいのことに捉えています。

弊社の外国人従業員も、1年前までは10回同じことを言っても「no problem」「だいじょボ。だいじょボ。じぇんじぇんモンダイナイ」といいながら、まるで何一つ分っていなかったのですが、最近では、言いつけたことがわかるどころか、自分の方から「提案をもってくる」ようにすらなってきました。

「新しいメニュー増やす。海老タンドリーとチキンソップ。お客さん色々食べられる。うれし、うれし、になる」とか。

で、その一年の間に何が起こったかというと、

数々の大困難。

そして、何故それが起こったのかとか、どうやったら切り抜けられるかとかを、毎朝始業前の2,3分、黒板に数字と表とイラストをチョークで書いて説明し、意見交換した事、多数回。

で、最後には必ずエロジョークを3,4発サービス。

すると10回ではだめなことでも、諦めずに365回位続けていると、次第に効果が現れ始めました。

同じく10回くらいの改善では伝達方法や共有方法が分からない事でも、流石に365回も毎日毎日改善し続けていると、数字や表、イラストを描くタイミングや表記方法なども、ブラッシュアップされ、なかんずく、その「見える化」(visualizing)によって「なぁんだ、説明の仕方が悪かっただけで、理解力や関心がないわけではなかったのだ」という事もわかってきました。

それを自分自らが分かるには、たった10回のトライでは全然足りなくて、365回位やる必要があったのだという事も。

昔からいろんな仇名を頂戴して参りましたが、今回は「スッポンの宇都宮(うとQ)」という仇名の元になった性格が、幾分幸いしたようでございます。

「自画自賛」且つ「我田引水」のおそまつ、ご容赦のほど、お願い仕る(つかまつる)

(ご案内)

弊社発刊シリーズ「コロナ禍同時進行執筆 ナマステ別館堂主人 ニューノーマル探索サバイバル日記」の

「8月の巻」を9/5に発売予定です(発売から5日間は無料購読できます amazonにて)

既刊の同「1月の巻~7月の巻」及び「人生終わったなと思う間もなくトンネルの闇を抜けて広野原」もお読み戴ければ幸いです。

2020/9/1

(うとQブログ ニューノーマル必携 開拓者魂(frontier spirit?と新刊本のご案内)

「新商品」「新品」「新開発」の新は、何となく新鮮さやワクワク感を抱かせて嬉しい気持ちになります。

反対に「新事実」「新事態」「新時代」などは、備えがまだできていないうちに突如生起するので、何となく身構えや警戒感を呼び起こします。当然「新常態(ニューノーマル)」もこちらの部類に属します。

ところが「新世界」や「新機軸」「新次元」は、期待感と同時に不安要素の入り混じった言葉のような感じです。

言ってみれば「吉と出るか凶と出るか」「丁と出るか半と出るか」の確率50対50で半々のフィフティーフィフティー。

まさにリスク・テイクの大賭博、大博打。

しかしここで賽子(さいころ)を振らないことには、双六(すごろく)のその先へは進めない。双六なので先に進むこともあれば逆に進みすぎて戻ることもあるかもしれないが、とにかく賽子(さいころ)を振らないことには、その先へ進むことは絶対にありえない。

ならば座して死を待つ「停滞」よりも、その先確実にあるかどうかはわからないが、リスク覚悟で「新世界」「新機軸」「新次元」の「新発見」を求めて未来に駒を進める。

そこで何が見つかるのか?1492年のアメリカ大陸発見ならぬ2020年以降の「新常態」発見の「大航海時代」の始まり.

まさに今求められているのは、あの時の「開拓者魂(フロンティアスピリット)」であるようなきがしないでもありません(ただし今回こそは行った先、見つけた先を荒らさぬように)

 

8/31、アマゾン電子書籍kindle本にて

コロナ禍同時進行執筆

カリー屋 ナマステ別館堂主人

「ニューノーマル探索サバイバル日記」

2020年1月の巻~2020年7月の巻 7巻一挙同時発売

定価105円(1$)

本日より9/4迄無料購読キャンペーン実施

著者名「うときゅういっき」で検索。amazon kindleページに飛びます。

 

以上、よろしくお願いいたします。

 

ナマステ別館堂主人:うときゅういっき 

202091日未明に記す


2020/8/31

(うとQブログ Hangout(たまり場)考)

テレワークになって、仕事の後、会社近くの飲食店で同僚と飲む比率が下がりました。

コロナ禍による自粛解除後も、感染への恐れから地元に早く帰る傾向が顕著です。

そのおかげで、当店は都会の飲食店ほど売上が滅茶苦茶に落ち込まずに済んでいますが、逆にコロナ禍後は、お客様が地元から都会に戻る分、売上減少の懸念があります。

しからばどうすればいいのか?

簡単に言うと「地元の居心地の良さ」を増すことです。

コロナ禍後もテレワークの比率はそう下がらないでしょうから、直接「隣にいない」同僚との関係は疎遠になり、本来直接面談を求める「人目人科」の特性として、身近に呼吸音や心音が聞ける地元民との接触機会が増えるはずです。

まず、第一に、地元の方が利害関係は全くないとは言えませんが、勤め先ほど露骨ではないでしょうし、いろんな立場や職業の人が「多民族国家」にも似て周りにいるので、そこでの暮らしがより楽しくなるような気もします。

であるなら、それを(或いは其処を)より楽しく、面白くするイベントや場所を提供すれば、当店にとって、又は近隣商店街にとってもこの上ない販促策になる筈です。

しかも地域の活性化にも寄与できますし。

この考えをもっと普遍的、敷衍的にコロナ禍後のニューノーマル世界観、価値観に当てはめてみると、回復後も経済活動、コロナ禍前比7割がマックスという「新常態」の中にあっては、最早「経済」という指標(お金の力)では人々の「幸福」は満たされないことになりそうなので、その穴埋めをする者との合計による「幸福」の発見が求められるようになるとすると、その「欠落部穴埋め」の第一候補は「心理的満足度=充足感」を基にした「世界観」「価値観」になるような気が、不図致しました。

そもそもこのコロナ禍初め異常気象等が地球生態系からの人目人科への警告であるなら、経済7割マックスはエネルギー的には誠に正しい在り方で、上記の心理的満足度=充足感が追加的新指標であるとするなら、それ自体の物理的エネルギー発生量はそれ程多くはない筈です。

では、上述した「心理的満足度=充足感」は、具体的には何なのか?

卑近な例として、手前どもの「お店」を参考に申上げれば「お祭り」とか「たまり場」みたいなものではなかろうか?という気がしております。

そういえば以前私共の「ナマステ別館堂」は国際間交流を模索する「Hangout(たまり場)from overseas(海の向こうから)」という名前でしたっけ。

今後は国際間交流に加えて、地元の世代間、隣人間(あなたの隣にたまたまいる人)交流に拡大できればいいなぁ、と現「ナマステ別館堂主人」は思っております。

あと、地元の社会福祉関係や地域コミュニケーション関係のNPOや自治会との連携も。

2020/8/30

(うとQブログ 「ニューノーマル考」と「本日発売」 新刊本のご案内)
          

「ニューノーマル(新常態)」を探索する前に、大切なことがひとつ。

それは、自分にとっての「常態(ノーマル)」をどう認識しているか?です。

安心で安全。常に平時で「意のままになる」のが常態と思っている人と、

いつ何が起こるか分からない。常に不確実が常時で「意のままになること等ほとんどない」と思っている人。

その差は今回のコロナ禍、風水害、異常気象、経済の大減速に際して如実に表れました。

前者は「こんなはずじゃない。何とかしてよ」

後者は「また来たか。今回のはかなりデカいが、また超えるしかないな」

今回の件に関して「ニューノーマル」とメディアが騒ぐのは、どうも前者に立脚してのような気がします。

しかし、我々が認識を改めないといけないのは、後者へのシフトそのもの。

そうして、それを超えてサバイバルするためにはどうすればいいのか?や、大袈裟ですが、これから、どのような「世界観」や「価値観」を持つのが理にかなっているか?という認識の切り替えや深堀ではないでしょうか?

それをここではマスコミやメディアの言う前者とは違った立ち位置で探り、サバイバルにつながる道を見つけたいと思っております(敢えて大風呂敷を広げさせて戴きます)

 

本日、アマゾン電子書籍kindle本にて

コロナ禍同時進行執筆

カリー屋 ナマステ別館堂主人

「ニューノーマル探索サバイバル日記」

2020年1月の巻~2020年7月の巻 7巻一挙同時発売

定価105円(1$)

明日8/31より5日間限定無料購読キャンペーン実施

(自分の手違いでキャンペーン開始が発売日翌日にずれてしまったことを深くお詫びいたします)

著者名「うときゅういっき」で検索。amazon kindleページに飛びます。

 

以上、よろしくお願いいたします。

 

ナマステ別館堂主人:うときゅういっき 

2020830日未明に記す

2020/8/29

(うとQブログ 誤解を覚悟で その3)本記事は自社HPでのみ掲載

数字はうろ覚えなのですが

「このコロナ禍において旦那さんが失職又は、かなりの減収になっても、働きに出ない専業主婦が40%?いる」

という記事を目にしてちょっと驚きました。

自分が知っている多くのアジアの国々では、旦那さんが働けなくなったら奥さんが働き、奥さんも働けなくなったら、子供たちが働く、つまり旦那さんこそが唯一の働き手と決まっているわけではなく、困ったときには誰かが代わりに働くというスタンスで、お互い家族が支え合って暮らしているのも目の当たりにしてきたからです。

話は少し飛びますが、戦前は結婚というと「お見合い結婚」が大半だったそうです。

お見合い結婚というのは「政略結婚」又は「親都合結婚」と混同されがちですが、実際には結婚する本人の周囲が事前に、それ相応の人物を取り巻く一種の「市場調査」をし、妥当なものだけが「まな板」の上にのって来たので、ある意味、ご当人たちは「楽ちん」でした。

ところが戦後、この「お見合い結婚」が、封建制の旧弊な因襲とみなされ、戦後の解放感もあって、大変古い言い方ですが「自由恋愛」と「恋愛結婚」へと大半に移行しました。

しかし、そうなると、今まで「お膳立ての整った客間」に姿を現せばいいだけだった男女それぞれが、各々自分で「市場調査」をし、その調査の後に選択した結果も自分で負わなければならなくなってしまいました。

特にここにおいて、女性はかなり大変だったと思います。

自ら市場調査をしていいと言われたものの、どうやったらいいか分からなかったでしょうし、その結果を自ら負わなくてはならない「自己責任」というのも初めてだったからだと思われます。

こうなると、今までの「周囲の眼力や調整能力」に代えて、一体何を頼りにすればいいのか?と戸惑った事でしょう。

で、頼ったのが「世間の風評」「マスコミ」「見かけ」でした。言い方は変かもしれませんが、お見合いが超エリアマーケティングだったのに対して、これは超「投網(とあみ)マーケティング」です。

その結果、投網マーケティングに引っかかったのが、バブル前では高学歴、高身長、高収入の「三高」でした。

ところがバブルが崩壊し、そんなターゲットに巡り合う確率が激減、今後もそのターゲットが増加する見込みがないとなると、今度は途端に「身の丈マーケティング」に変化。

即ち「ハイスペックではないにしろ、それなりのコスパで、むしろ自分の扱い易さに焦点をあてた」戦略に代わってきました。

その表れが、暫く前では「アッシー君(車)」や「メッシー君(食事)」でありましたが、最近になると、それがもっと深化して、大人しくて優しそうで気の弱そうな旦那さんがスマホ片手に先頭を切って歩く奥さんの影を、三歩下がって踏まないようにベビーカーを後押しながら付き従うカップルの姿となっているようです。このカップルの姿は自分が見る限りにおいては都市部では激増しました。

こうしてみると、戦後、お見合い結婚が激減し、大半が恋愛結婚になったというのですが、「あなたに首ったけ」とか「あなたなしでは生きられない」といった本当の恋愛結婚などというのはほんの微々たるレアケースでしかなく、実際にはお見合い代わりに、全く熱を帯びない「広範な投網マーケティング」による「消去法結婚」でしかないような気もします。

そのため「代替燃焼アイテム」として激増したのが結婚後の「巧妙な不倫遊戯」

最後になりますが、ある時、不図、違和感を覚えたお話を一つ。

これまたアジア系外国人との対比で恐縮ですが、最近の新聞を見ていて

「夫は、働きに出る奥さんへもっと理解を」

といった記事に接するたびに、他の国々の人々は、夫婦そろって働くなんて当たり前のことなのに、何で我が国ではそれが殊更に記事にまでなるのだろう?と。

で、思ったのが

「この記事の根底には、何のことはない、逆説的に言えば旦那が働いて奥さんが専業主婦でいるのが当たり前。それを超えてまで私が働きに出るのだから、相当なる便宜を図って然るべきじゃない?」

という我が国特有の、外国人男性が恐れおののく、働きに出ない「専業主婦当然思考」が根底にあるのではなかろうか?と思った次第です。

なので、旦那さんが失職又は減収になっても「働きに出ない専業主婦」が40%にも上る結果になったのだろうと。直前上記の仮説を冒頭に掲げた引用記事が裏打ちしているのではなかろうか?とも。

本日も、三度、誤解覚悟で申し上げました。悪しからず。

2020/8/28

(うとQブログ 餅は餅屋)

受け答えに情味や思いやり、ユーモアもなく、自分のテリトリーの知識にも乏しく、組織横断的な話となると、それまでの居丈高な態度を一変して途端に「逃げに回る」窓口で、人間ならではの情味、思いやり、ユーモアがまるで期待できないのであるなら、少なくとも後者の知識の正確さ、横断的な事柄に関わる検索照合能力とスピードを持ち合わせたAIロボットの方が余程ましでしょう。

となれば、早晩、役所、銀行、病院等の窓口の90%はAIロボに置き換わっても不思議ではありません。

所属組織体の経営的に見ても「退職金いらない」「給与いらない」「人事考課必要なし」「メンタルメンテナンス不要」となれば願ったりかなったりの筈。必要なのはIT&メカニズムメンテナンスマンの経費のみ。

となれば恐らく5年以内には、否応なくこの流れは実現してしまうでしょう。

が、しかしそうなると、失職した窓口の雇用をどうするのか?という問題が起きますが、これはある意味今まで胡坐をかき過ぎた故の自業自得なので、新しいスキルノウハウを身につけなさいね、というアドバイスをする位しかありません。

問題は、その身に着けるべきスキル、ノウハウとは一体何なのか?です。

しかしこの答えは既に冒頭に出ていると思います。

人間ならではの、情味や思いやりユーモアのブラッシュアップとそれを活かした職の創造です。

この点では接客業、或いは接客業務というのがこれに最も近いと思います。

そうして極端に言えば、お客様一人に対して一人のスタッフ(接客業務従事者)がサポートする。人間の声と体温(暖かみ)で。

まさに効率万能のAIとは正反対の、徹底的に不効率な人海戦術大作戦。

こうなれば、多大な失職者分だけ雇用が生み出せますし、AIとかち合わなくて済み、棲み分けと共生が可能になります。

餅は餅屋。お互い特異な分野を分担する。これに越したことはありません。

AIをフィンテックや暗号解読にだけ使うなんて勿体ないし馬鹿げています。まずは役所にでも使うのが一番だと思いますけれど、ね。

2020/8/27

(うとQブログ 速やかに行われる必要があると思われる「真犯人探し」)

我が国の国民というのは、自分の観察するところによれば、人の為に役立ったり、動いたり、助けたりすることがとても好きな、或いはそれを「嬉しい」と感じる国民だと思うのです。

例えば、震災や風水害が起きると、多くの人がボランティアで現地入りするのを見てもわかります。

しかし、都会生活の中では、それとは全く反対に、困っている相手が身近にいる場合、何故か見て見ぬふりをするケースが頻繁に見かけられます。

同じ国民、いや同じ人でありながら何故このような逆転現象が起きるのか?

都会生活の中では、言い方を少し変えて言えば、非常時ではない日常生活の中では、何故裏返ってしまうのか?

何がそうさせてしまうのか?

これまた明け方、つらつら考えてみました。

で、思ったのが

「同時に多くの人が集団で行うか、一人で行うか、の差」


「周囲にある善意の人の目と、疑義の人の目の差」

でした。

要するに都会生活のような場で、人の為に「役立つ」「動く」「助ける」などの行為は周囲からは、まず「異質」「目立ちたがり」「偽善」「スタンドプレー」等の負の評価が先行するか、本人自らがそれを想像して二の足を踏む、手が出ない、息苦しくなるのではないかなと。

バスや電車の中でお年寄りや体に不自由を抱えた人に席を譲る気持ちは十分あるのに、それができない(特に若い人)

それはSNSなどで、何人かの有名人が慈善活動や救済活動をすると「ことあるごとに批難中傷」を受ける恐ろしさを目の当たりにして、腰がすくんでしまうからのような気がします。

或いは近くで、ひそひそ話か、敢えて聞こえよがしに

「カッコつけやがって、よっ」とか「いい子ぶっちゃって、さっ」とか「何様のつもりよっ」とかを耳にするので(特に年配の声)

冒頭でも申上げましたが、本来我が国国民は「人助け」の好きな国民性を持ち合わせているのを強く感じております。

だのに、この優れた特性を「偽物」「まがい物」「薄汚れたもの」としてみるようにしてしまっているのは、いったい何なのか?

いつかその「真犯人」を突き止め、捕縛し、二度と悪さができないようにしてやりたい気がしております。

2020/8/26-3

(うとQブログ そうなりたいような手本の存在)

自分が子供の頃は、自分も「そうなりたいような手本になる人」というのが結構周りに居ました。

例を挙げれば薬局をやっていた父方の叔父さん、親父の弟です。

面白くて人情家で腰も低く、商売も抜群に上手かった。

しかし若い時には本人は中学卒なのに薬大卒の、後の奥さんになった人と駆け落ちまでして結婚し、その後、許しを得て、本人は薬剤の知識など全くないにも拘らず、後日においては市内随一の薬局にまで育て上げた人です。

こどもは6人もいて、商売がうまくいき始めた頃、子供たちがお母さん(つまり駆け落ちした奥さん)の脚に血管ミミズ腫れ瘤ができたのを「カッコ悪い」といったのを耳にして、普段は穏やかな叔父さんが

「許さん。お母さんが一日、立ち仕事をしているから瘤が出来たんだ。その立ち仕事の御蔭でお前たちはご飯が食べられるんだぞ。それを笑うなど、俺は絶対に許さん。謝れ!!お母さんに謝れ!!

夏休みで九州に遊びに行っていた時、この事件を目にして

「めっちゃ、カッコええ」

と思いました。

自分の親父も終戦後、外地で捕虜となり、金品(腕時計やアルミ食器等)目当ての現地の「土人」に夜襲をかけられたりし乍、武器がないにも拘らず何とか切り抜け、部下の最後の一人が帰国するまで2年間、外地に留まった後、自分はそれを見届けた上で、最後の最後に復員したのですが、この親父の事も滅茶苦茶カッコええなぁと思っておりました。

(終戦を迎えて軍隊は解体されていたので、もう上官ではなくなっていたのに、でした)

幸いにも、この歳になってすら、数は多くないのですが、周りにそういう方が何人かいます。

皆、何というのか「男気」のある人たちです。男気というのは何も男だけが持つものではなく、女でも「男気」のある人はおります。

男気というのは「あんたがそこまでするんやったら、こちらも一肌脱がせてもらうわ」という気持ちの事です、

或いは、物事の「筋を通す」気持ち、ともいえます。

そういう手本になる人が最近とみ減り、取り分け、自分の身の回りにいないのは大変辛い事なのかもしれませんね。

全ての成長は、模倣(まね)から始まるとすれば。

2020/8/26-2

(うとQブログ この手が使えないか?)

高校時代「哲学」という言葉に大変憧れまして、よくわかりもしないのに課外授業で「フランス哲学」と「ドイツ哲学」を二年間、履修しました。

全校生徒1800人の中で受講したのは両クラス併せて12、3人位だったでしょうか。最後は10人を切っていたと思います。

その中でドイツ哲学の巨星ヘーゲルのアウフヘーベン(止揚)という考え方を教わりました。

簡単に言うと相反するものを包含してその上の次元に移行することが止揚。止めて(とどめて)持ち揚げる(揚がる)から止揚。

この方法が昨今のコロナ禍の解決策に適応できないだろうか?とふと思いました。

「感染拡大防止」(定位)と経済活動再開(反定位)の対立を解消し、それらを包含する上位概念(高次)に移行できる何か。

或いは「有形資産(製造、ハード)」と「無形資産(知識や智慧、ソフト)」や「生産と消費」などなどの上位移行はないだろうか?

量子コンピュータなどはこの考え方を取り入れているような気もします。

「黒と白(0と1)」以外に「黒であっても白であってもいい(0でも1でもいいもの)」或いは各々「そうでなくてもいいもの」の存在を認めたからこそ、計算能力が飛躍的に上がったのだそうだからです。

相反するものの対立の勝ち負けや、そのどちら側に着くかという選択議論ではない何か?もっと言えば「勝ち組に着く」とか「負け組にならない」といった妙な競争と選別や格差を煽るものではない、何かはないか?

そういう視点に立つ必要が今回こそ最大に求められているような気がしております。

しかしこれは自分の経験則上、物事を曖昧にしてしまう極めて危険な因子も含んでいるので、その解を得るには、かなりの難問、難行程になる、であろう予感に包まれております。

2020/8/26

(うとQブログ 誤解を覚悟で その2)

自分は元重度うつ病患者で12年間罹患しましたが、その時の状況を思い出すと、今後冬にかけて相当数のうつ病予備軍が「発症に至る」(発症宣言をする)予感がしております。

きっかけは言わずと知れたコロナ禍ですが、それは単なるきっかけに過ぎず、その温床はかなり以前からあったような気がします。

むしろコロナ禍という「大義名分」を得て、ここぞとばかり我も我もと名乗りを上げる可能性すら感じております。

つまりかなり前から相当な「抑うつ状態」に多くの人々が陥っていた。

というのも数年前から、街ゆく人々からあまりにも元気が失われているように見えていたからです。

その人たちが、今まで隠していたその「不都合な事実」をコロナ禍という大義名分の「安心感」「正当、妥当性」「横並び観」を得て噴出させる。なので、今後うつ病の季節である冬にかけて発症者数が激増する。

これが自分の見立て。

ではなぜ、そのような抑うつ状態の「うつ病予備軍」が急速に増えていたのか?何がそれを引き起こしていたのか?しかも近年急速に。

観察の結果見つけた自分なりの答えは

「隣人(その時隣に偶然なりとも居合わせた人々。近親者や赤の他人を問わず事実位置関係のみでの臨際者)によるスパイ活動(盗み見、無関心の装い)の深化、高度化、拡大」が原因。

本来打開や気分転換のきっかけをもたらす筈の隣人が、一挙暗転してスパイ、監視者になってしまった。

いや、それが事実かどうか以前に、自分がそうする様になったから、恐らく隣人、臨際者もそうであろうと疑心暗鬼になってしまったという事かもしれません。

これでは元気になりよう筈もない。かといってそれを理由に「うつ病になりました」とも言えない。

なので、今コロナ禍は、その不都合な原因を隠して治癒や休職という結果だけを求める為の「名乗りを上げる」には絶好の機会だからではないか?と申し上げた次第。

しかし、上述の観察が当たっているとすれば、大元の原因が他にあるので、恐らくコロナ禍が過ぎ去っても一転快癒する事はないでしょう。

これ又本日も、昨日に続いて誤解、反発を覚悟で敢えて申上げました。

2020/8/25-2

(うとQブログ ナマステ主人の「超簡単料理教室の巻」でんがな)書庫版

今日から、以前やっていた「うとQクッキングスタジアム」をはじめようかな?と。

今日はお酒のおつまみに最適な

単価100円以上の豆腐とナスの浅漬けのシンプル和えと

ビーフハヤシとビールシチューのミックスによるビーフハヤシ鍋ご飯掛けの一品。

めちゃやすいわ理にうまかったです。

豆腐ナスが一食200円、ビーフハヤシ&ビーフシチューミックスライスが一品食当たり400円強。

掲載写真の受け入れ数の関係で全部の写真は載せられないかもしれませんが悪しからず。

2020/8/25

(うとQブログ 誤解を覚悟で)

コロナ禍に至る迄に、何故ここまで酷くなってしまったのか?

しかも相当広範なる範囲で。

思うに、ここまで広範だと酷くなった原因として考えられるのは「教育」位しか思い当たりません。

ではどのような教育によってなのか?

家庭教育?学校教育?職場教育?

恐らくそういう切り口では分からない様な気がします。というのは全ての段階に於いて、に見えるからです。

そうした中で、その起因を探すのは単なる犯人捜し的「責任の擦り合い」位にしか見えません。

ならば、どのような教育に起因しているのか?

こういう言い方が成り立つのかどうかは分かりませんが、自分なりの言い方をすれば

「教えない教育」のせいではないのか?と。

旧世代が新世代に教えて然るべきものを教えていない。

旧世代が教えるだけの経験をなくしてしまったのか?教えるだけの中身がないのか?教えるだけの自信がないのか?それとも教えることで食らう反発を恐れてのことなのか?

言うべきことを或いは伝えて然るべきものを教えないで沈黙してしまっている。

これを非常に大胆な、ともすると誤解を招きやすい言い方であることを覚悟の上で申し上げると

「女子供の前で、男が何も言えなくなってしまっている」

「現世代の前で、先行世代が何も言えなくなってしまっている」

弱者と呼ばれて久しい「女子供」の、完全には一致しませんが、換言すれば「教わる側」の権限が過度に増大し、その複数いる「隠れ帝王」達の前で「家臣」となり果ててしまった「男達」が何も言えなくなっているのが実態。

或いはまた現世代の前で先行世代が「抑圧者」「守旧派」のレッテルを恐れ、沈黙してしまっているのが実態のような気がするのです。

昔は「泣く子と地頭」でしたが今は「女子供と現世代には逆らうな」であるかの様な。

故に男性復権、旧世代復興、等とアナクロな事を言う気は更々なく、それこそ「男女平等」「新旧対等」即ち「New格差ゼロ」にしないといけないのではないか?とだけ。

男や先行世代が女子供、現世代の反発や非難を恐れて「教えない教育」をするに至った弊害が昨今の状況を招いている。

自らの反省も含め、そんな気がしているのです。

2020/8/24

(うとQブログ 難問愛好家冥利)

「これだけ」「これっきり」「ワンパックですべてに対応」

といったものが、全くの絵空事で、クソの役に立たないことを、ものの見事に暴き出したのが今回のコロナ禍でしょう。

一品一葉、一件につき一つ、一人につき、同じく一つ。

十把一絡げは存在せず十人十色だったことがはっきりと炙り出された。

又、リモートワークになって上司の自信のなさと部下の指示待ち体質も炙り出された。

将又(はたまた)、在宅勤務になって愛情と思いやりで成り立っている家庭と、そうではない要因(ほぼ魂胆に近い何か)で成り立っていた家庭の差が否応なく暴露されてしまった。

更には、顧客のことを考えている会社と自社の都合だけの会社の違いも歴然としてきた。

かてて加えて、上下を問わず、国も問わず、自分の立場しか考えない人とひとのこと「も」考えられる人間の違いも顕著になってきた。

そうして、慾ボケから、本来母体である「共通土壌探索」をないがしろにして、共通土壌の上に生えているだけの木々のような存在にすぎない「差別化差異化」のみに着目。

それを異様にクローズアップし過ぎて、共通土壌の存在を忘れた結果、木々だけが対話口のないまま孤立対立したような構図が産まれた。

そして、その「頭(派生物)でっかちな」不安定極まりないアンバランスの中で、以上に育った木々の対立が生み出す「勝ち組妄念」に囚われた人間同士の争いが、どれだけ他の生き物や天然自然に対して「大変なご迷惑をおかけしている」かも分かって来た。

そういったことが分かって来た上で、この卓袱台返し(ちゃぶだいがえし)状態をどう整理し、新たなニューノーマル(新常態)をどう築いていくか?或いは今あるものの中から掘り起こしていくか?

ヒントは、この認識外になってやせ細った「共通土壌」をいかに膨らますか?にあるような気がしないでもない。

しかしそれはどうやれば?

これは大変な難問ですが、難問好きの自分としては「誠に解き甲斐のある問題」を戴いて

「ウッシッシ。なんとのう、おもろうなって来よった、やないけ」という感じで

「難問愛好家冥利に尽きる」の一言。

で、そのワクワク感から、いささか興奮気味なのでございます。

2020/8/23

(うとQブログ 「ニューノーマル考」と新刊本のご案内)

大変なものが今三つ。

「コロナ禍」「経済活動大減速」「台風風水害熱波」

これを、数字を使って表すと

A)コロナ禍+5(B)経済活動大失速―10(C)台風風水害熱波+5で

A)+(B)(C)=5+(-10)+5=0

となります。

これを見ると(A)コロナ禍と(C)台風風水害熱波が(B)人間の経済活動を

抑え込もうとしている、何か意思のようなものを感じてしまいます。

ではその前はどうだったかと言えば(A)と(C)がゼロで、(B)が断トツの+10、それで総合計が+10となり、完全に0均衡点が崩れていたような気がしないでもありません。なので、今何かが(A)(C)を使って(B)に警告を発する目的で、それを抑え込んでいる気がしたのです。

もし、0均衡がお互いにとって正しいポジションであるなら、(A)(C)は今から其々―5ずつを以て0にする事になりますが(B)の人間の経済活動は今から見ると+10で0。

しかしそれ以前の+10から見ると戻りは、差分の20の約半分なので50%となります。

自分が思うにエネルギー上はこれが正しいポジションなのだと思います。

ここでいうエネルギーとは人々の「快適さの追求」或いは「合法的な欲望の発露」と言い換えることができるような気がしますが、そうなるとこれ以降は「制御、抑制、自粛」の生活を強いられることになり、大いに不満が溜まる事になりそうです。

恐らく今までの考え方の延長線上では想像もつかないようなレベルとなり、とても「エコバックの使用」や「エアコンの適正温度維持」レベルどころの話ではない筈だからです。

極端な喩えですが、50%抑制なので「夏はエアコン使っていいけれど、冬は一切使ってはダメ」くらいのレベル。

そんなものに現代人が耐えられる筈がありません。

ならばどうするか?

これはもう「自分にとっての快適さの定義」と「欲望の向かう先とその達成の仕方」を変えるしかない気がします。

それが今何なのかはまだ分かりませんが、恐らくそれこそがニューノーマルのような気がいたしております。

今月、8月末発売の

コロナ禍、同時進行執筆

カリー屋、ナマステ別館堂主人

「ニューノーマル探索サバイバル日記」

では、その辺を書き進めて参りたいと思っております。

2020/8/22-2

(うとQブログ うな垂れひまわり)

コロナ禍で且つ猛暑。

元気なのは蝉君と蜻蛉さんだけのようです。

わんこは舌を出しっぱなしで肩で息をしているし、植物でもモノによっては焼け焦げてしまった様な状態のモノも見かけます。

そんな中、今日ちょっと驚いたのは、ひまわり畑で、いつもなら太陽に顔を向けて凛として屹立している筈のそのひまわりさん達が、なんと全員集団で地面に向けて首をうな垂れていたのです。

自転車をこぎながら遠くから見てひまわり畑に何故かひとつも黄色が見えなかったので、

自転車の向かう方向を切り替えて近づいてみると、なんと畑全部が

「うな垂れひまわり」

こんな光景、生まれて初めて見ました。

いつもの年なら同じ最期を迎えるにも、太陽に向かっての「立ち枯れ」ひまわりさんが、今年は何と「うな垂れ」ひまわりさんになっている。

まるで今の我々の、心象風景みたい。

なんか、見てはいけないものを見てしまった様な、一種の怖さを感じた、今日の午前中でした。

2020/8/22

(うとQブログ 切羽詰まった「最終的販促策」)

コロナ禍の郊外戸建て住宅街。

朝はやたらと犬の散歩をする人やジョギングをする高齢者の姿が目立つようになりました。

昼は、コロナ禍に合わせて生じたような炎天下のせいか、ひとっこ一人歩いていません。

動いているのはせいぜい蜻蛉と蝉くらい。

夜も人っ子一人歩いていませんが、昼の炎天下とは対照的に、そろそろ秋が近いのか、公園の草陰では鈴虫が鳴き始めました。

一方お店傍の団地群住宅街。

朝は、地元スーパーの開店時間を待つ人の姿が激減しました。

昼は、まぁ、そこそこな人出の数ですが、夜となると、元々夜はゴーストタウン化していたのですが近ごろゴーストタウン化する時間がとみに早くなっているような。

我々飲食業の商売というのは、店の前の単位時間当たり通行量X通行時間X立ち寄り率ですから、郊外店での地元回帰で単位時間当たりの通行量は上がったものの、通行時間が大幅に減ったため売上が厳しくなっているわけです(立ち寄り率は広告投資でキープしているとして)

しかし、国策と国民自らによる自粛警察とで外出自粛が続く限り通行量と通行時間の拡大は難しいでしょう。まぁ、せいぜい宅配でしのぐしかありません。

となれば、やはり立ち寄り率を上げるしかない、となります。即ちテイクアウトのお客さんのアップ(内食は勧められませんので)

そこで今、力を入れ始めたのが「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のイベントの連発。

もっと言えば興味関心を引きそうな話題の提供。

そんな訳で、カリー屋(飲食業)による「コロナ禍同時進行執筆」の「サバイバル日記」をECサイトで毎月、電子出版(紙本ではないのでコストはが限りなくほぼゼロ、手間暇だけです)することに致しました。無論冊数がそんなに売れないのは承知の上です。

しかしこれはお店の生き残りをかけた、かなり切羽詰まった「最終的販促策」のひとつなのです。

ですので、今月の売上に、その端緒が幾ばくかでも見えるよう、現在、ギリギリの準備を昼夜兼行で進めて居る次第でございます。

2020/8/21-2

(うとQブログ () お店評価 星一つの件)

前の記事の続きですが、出社した外国人従業員に早速「ここ二、三日でお客様とトラブルがあったかどうか」訊きましたが、なかったとのことでした。

前回星一つ評価を戴いた事例から、混雑で食事の提供が遅くなったことを予測して「遡って混雑する、土日にはトラブルがなかったかどうか」も尋ねましたがやはり全員が「そのようなことは全くなかった」との回答でした。

だのに星一つで、しかもコメントなし。

従業員は「どうして?どうして?理由は何?」と騒ぎ始めたので、お客様と従業員、それにお店、三方の為に、取り敢えずはコストのかからない対策を予防的に打つしかないなと思いました。

それで、味、マナー、スピードの再点検をするよう言い渡しました。

味とスピードは毎日言い渡してあるので、主にマナーについてだったのですが、このレストランは従業員が全員外国人なので、店内は日本であって日本でないようなところがあります。

言ってみれば江戸時代の「長崎の出島」軒みたような。

なので、余り日本流の「厳密さ」を外国人従業員に押し付けると彼らが「窒息」してしまいますし、お客様にとっても

「だったら日本人コックさんを雇えばいいんじゃないの?でも、それだと面白くもおかしくもないし、カリーが売りの只の日本料理店になってしまうでしょ?だったらわざわざここに来る意味ないし」

になってしまいます。

はてさて、どうしたものやら。

とにかく毎日、未経験のいろんなことが起こります。

ボケ防止にはいいのですが、度が過ぎると心身に異常をきたしてしまいそうです。

2020/8/21

(うとQブログ お店評価、星一つの件)

深夜、PCをチェックしたところ、クチコミがあった旨の通知がありました。

開くと、星一つの評価で、コメントなし(星5つが最高点。つまり最低評価。当店の平均点は4.3です)

以前にも別のお客様から星一つ(最低点)を戴いたことがあったのですが、理由が書いてあったので、さっそく改善手立てを打ちました。その後、同じ原因での悪評価はなくなりました。

しかし、今回は理由が書かれていない。

昨日お店で何があったのか?

(因みに昨日、自分は裏方の仕事でほぼ前日本社におり、お店には不在でした)

理由が書かれていないことには、改善のしようがありません。

改善されなければ、ご当人は無論、他のお客様へも改善が反映されないことになります。

当店としても当然不安材料を抱えることになります。

それを避けようとすれば、予測で改善案を立てることになりますが、あくまで予測なので、当たっているかいないか分かりませんし、予備を取って複数案実施することになるので、資金負担が増える事になります。

三方両得の正反対、三方丸損です。

コロナ禍で経営が極めて厳しい飲食店においては、これは物心両面で相当なストレスになりそうです。

皆様へお願いです。

悪いなら悪いで、理由をお書きくださいませ。

無論、良いなら良いでの。

そうするとお互い同士の歯車が噛み合いますので。

何となく悪い、何となく良いが一番悪いのです。私共にとっては。

2020/8/20

(うとQブログ それだけの話、でして)

「こんな状況下で、よく冗談なんか言っていられるね」

とはよく言われるのですが、別段脳天気だからでも大物だからでもありません。

深刻な顔をしたところで事態が好転するわけでもないし、逆に自分の不機嫌が従業員に影響し、従業員の不機嫌がお客様の不快を招いて売上に影響する。

それで朝っぱらから腰ふりダンス付きの、前の記事でお話ししたエロジョークを4,5連発かっ飛ばすわけです。

例えば今度はエアコンの件。

従業員はお客もいないのにエアコンつけるのはもったいないと言って点けたがらないのですが、夏場はナンを焼くタンドリー窯の前は50度にもなりますし、休み時間も窯の火を落とすことができないので、エアコンなしの室内は40度にもなります。

なので、休み時間もエアコンをつけるように厳しく言うのですが、それは自分が善人だからでも人格者だからでもなく、エアコンの電気代のアップに対して従業員がダウンして店を閉めなくてはならなくなる売上減の方が遥かにマイナスだからです。

はたまた、従業員全員に社会保険、労働保険を適応しているのも、今後わが国に外国人が増えれば「不法就労チェック」が厳しくなるであろう事を鼻から予測して、早い段階から手を打っただけの話。

それもこれも偏に(ひとえに)弊社の事業目的を最初から(その時時点の)「利益の最大化」ではなく(将来における)「事業存続の最長化」に置いているからです。

オーナーの人格の出来不出来次元の話ではありませんし、それに類するモラル話とも何ら関係がないのです。

存続の為に、社是に則って、淡々とそれを遂行する。

それだけの話なのでございます。

 

2020/8/19

(うとQブログ 「最高の人生」?)

「好きなことをやって、それで飯が食えれば苦労はない」

「仕事は楽しいことばかりではない。それは仕事の大変さを知らないから言えることだ」

しかし、今までよく耳にしたそれらのご託宣は「まことしやかな嘘」か「勘違い」のような気もします。

「好きなことだから、少ない実入りだってやっていける(家族に迷惑をかけない範囲で。或いは、それを理解する家族を持つことで)」

「好きなことをやっているんだから、苦しいこともあまり苦にならない」

というのが本道ではないかと。

或いは「何故そう先をみるのだ?」という問いに対して

「経営の要諦はいかに先を読んで、その推測に対して鼓舞乃至は抑制の布石を打つことだ」

という、これまたまことしやかでご立派な「ご託宣」ですが、実のところは

「えっ、それでこの先どうなるんだろう?次回はどうなるんだろう?」

という、子供の頃の人気連載漫画の次号を楽しみに待つ、或いは待ちきれないこども心に等しいものでしかない、そんなところが本道のような気も致します。

好きなことで、とっつ、かっつ、でありながらも飯を食い、ワクワクしながら明日を待つ(読む)

そんな人生を経営者として送れれば最高かな?と思っております。

 

2020/8/18

(うとQブログ 弊社企業理念の根底にあるもの「カッコ悪い戦略」)

現下、コロナ禍、不景気。こういう時こそ強気に出る。

将来、好景気到来。こういう時にはむしろ沈静、投資を控える。

要するに、時間軸を意識して次に備えるわけです。

不景気であれば次の好景気に備えて強気投資。

好景気であれば、次は下り坂が来るので抑制。

不景気だからと投資を抑え、好景気だからとどんどん投資をするのは、その時点しか見ていないからです。

次を見れば、次に来るのは波動(サイクル)の波から言って、今と逆な状況が来るわけですから、今の状況と正反対の行動に出る方が、より道理にかなっています。

又は、こうも言えます。

下降局面では、逆である上向きの力を注ぎ込んで中心線(水平線)に戻し、上昇局面では、行き過ぎを抑えて下向きの力を働かせ中心線(水平線)に戻す。

下がりっぱなしの株はない。上がりっぱなしの株もなし。

常に次を見据えて一手を打つ。しかも今の状況とは正反対方向、正反対作用の手を打つ。

それが正解であるような気がしております。

我々の企業目的は「(その時点での)利益の最大化」等ではなく、末永く活動を続けられる「存続の最長化」

即ち我々の企業理念の根底にあるのは、少しでも長く、少しでも先へ歩みを進めようとするかわし、切り抜け、間一髪滑り込みセーフの「くねくねドジョウ戦略」換言すれば「サバイバル戦略」なのでございます。

「カッコ悪い戦略」なのでございます。

2020/8/17

書直し版(うとQブログ 元気のなさの正体 その6)

昨日猛暑。日の陰り始めた夕間暮れ、近くの遊歩道で、とても小さな蜥蜴に出くわしました。

あまりに小さいので初めは気づきませんでしたが、何やら「ちらっ」と動いて気がして、足を止めてよく見てみると、それがちぃちゃな蜥蜴君でした。

「わっ、なっつかしぃ!!

蜥蜴で思い出すのは、何といっても「イモリの黒焼き、惚れ薬」です。

小学生の頃大好きな女の子がいて、学校の帰り道、男友達とお互いに好きな子と自分の今後の「恋の行方」を占う「あきすとぜねこ」をしながら帰ったものですが、それをしながらも、どうやったら好きな子とラブラブになれるのか日々真剣に検討を繰り返しておりました。

流石に親や先生には聞けないし、友達もあてにならない。

で、仕方なく近所の爺さまに聞きに行った処

「そりゃぁお前、何たってイモリの黒焼きだわ」

と即座に一発回答。

何でもイモリを黒焼きにして、それを砕いた粉末を好きな子に飲ませるとの事。

それからというもの随分とイモリを探す毎日を送った記憶がありました。

今時、そんな事をしたら動物愛護協会、保健所からは大目玉、警察署からはオーバーストーキングで逮捕状でも出そうですが、当時は悪ガキのよくある「いたずら」位のことで、別にどうって事なかったのです。

それにとどまらず、中学でも、相変わらず誰が好きかとか、誰かが持ち込んだエロネタでワーワー、キャーキャー、やっておりました。大らかなものです。

ところが昨今では、猥談ダメ、下ネタダメ、エロ話ダメの「健全警察」「品行方正警察」

全盛期。あれダメ、これダメ、みんなダメ。

しかし思うにそれは、全く逆効果のような気もします。

押さえつけるから下にもぐるのです。

「行儀のよさが、礼儀を殺す」です。

こんなもの、大っぴらにさせておけば、かえってコマメにガス抜きができて犯罪も減るでしょうし、みんなの元気も出易くなります。

それをやらないと、ガスが溜まりに溜まって一挙にレバノンの大爆発の如きが起こる可能性がありますし、抑圧が長く続くと元気も反発力を失って圧死又は窒息死してしまいます。

そうならないためにはコマメなガス抜きが不可欠です。

因みに、外国人ばかりの当店の国際交流開始原点は「エロ・ジョーク」からでした。

エロ話は世界共通コミュニケーション開始言語なのです。

相手や周囲を不快にさせない範囲で、どんどんやればいいとおもいます。

元気を取り戻す為には。

2020/8/15

(うとQブログ 元気のなさの正体 その5)

本日終戦記念日。

又、今日は開戦128日と同年月日に産まれ、同終戦年月日の本日に他界した祖母の命日。

で、本日は戦後特に目立ってきた兆候の話を一つ。

「一度でも失敗したらダメ」

「一人にでも嫌われたらダメ」

と、無意識野に迄浸透するほど幼児期から暗黙裡に教わってきた。

しかし、そんな上手い方法のある訳もなく。

というより、そもそもそれ自体が道理不適合なのである訳がない。

ある訳がないものを探しているから見つかる筈がない。時間ばかりいたずらに過ぎ、その内臨終を迎える。

「ならば止めればいいのに」

と思うものの、中々そうはならない。

まず、上記に付け込んで

「一度も失敗しないお手軽な方法があります。貴方にだけ」

又は

「誰からも愛され嫌われない方法があります。貴女にだけ」

というお誘い広告。

「面倒臭いの、是罪悪」の現代人は程度の差こそあれ、この手の広告にあっけなく陥落。

陥落迄いかない迄も、目と視野と方向がそちらの方に向かされてしまうか、向いてしまう。

益々事実から遠ざかり、相変わらず「ないもの探しの旅」を続けさせられるか、続ける。

そうして更に混迷の度合いが深まる。

分岐点は何処?

一番初め。

曰く

「一度でも」

「一人にでも」

のスタート時点からの完全無欠要求。高すぎるか「あり得へん」ハードルの高さ。

是では元気の出る訳がない。恐怖で縮こまって手も足も出せぬ「達磨さん」状態。

産まれ落ちたその瞬間から「リスク・テイク(冒険又は挑戦)」という単語を人生の辞書からdeleteされ、替わりに「愛情たっぷり」という美名の元に事実上「自宅幽閉人生」を申し渡されたに等しい。

是を分かり易く一言で言えば

曰く

「過保護」

注)

尚、本記事オマケ篇はいささか長いので下記の当社サイトに掲載いたします。よろしければどうぞ(ナマステ別館堂出版ページの下方、本日のトピックスのコーナー)

URL

http://utokyu.co.jp/electricpublishing.php

2020/8/14

(うとQブログ 新刊本発売予告)

弊社、新刊本発売予告

●コロナ禍同時進行執筆

  カリー屋 ナマステ別館堂主人

     「ニューノーマル探索サバイバル日記」(仮称)

2020年壱月の巻

2020年弐月の巻

2020年参月の巻

2020年四月の巻

2020年伍月の巻

2020年六月の巻

2020年七月の巻      

計7冊   

及び

●英語版「utokyu blog vol-1」(仮称)

も併せて

一挙合計8冊を今月8月末、amazon kindle本にて同時発刊の予定です。

よろしくお願い申し上げます。

定価はamazon本社との関係で、各1$(為替変動によりますが、106円程度です。お客様は円払いで大丈夫です)

 

又、これらのシリーズは今後も毎月発刊の予定です。

乞う、ご期待のほど。

 

その後の情報につきましては弊社HP ナマステ別館堂出版部 でご覧ください。

http://utokyu.co.jp/electricpublishing.php

2020/8/13

(うとQブログ 元気のなさの正体 その4)

以前、ある読者から

「あんたは書き過ぎ。いちいち事細かに説明して貰わなくても、その位わかる。却ってうるさいから止めろ」

と。

このご意見を戴いて「自分の傲慢」に気づきました。

曰く「人はここまで説明して上げないとわからないだろうから」という見下しに。

それ以来よくみると、人には「かなりの想像力」があって、ほんの少しのヒントで相当な部分を説明なしで理解していることに気づきました。

そういう人々にとっては「小さな親切、大きなお世話」である事にも。

しかし更にみると、折角備え持ったこの「想像力」もっと言えば周囲の変化や芽生えを察知する「レーダー(探知)機能を備えた感覚器官」が全く動作していないに事にづきました。

折角あるのにそれが作動していない「宝の持ち腐れ」状態。

何故?

で、考え付いたのが、そのレーダーの向きが水平360度の有用方向ではなく、例えば真上か真下の無用方向に向いていて、その本来機能を発揮できていない様な事になっているのではなかろうか?と。

分かり易く言えば「目が明後日の方向を向いている」か「向かされている」

どうしてこんな事が起こっているのかは分かりません。

しかし我々の中の相当数が、あらぬ方向を向いて「気づきの機会」を失ったまま「宝の持ち腐れ常態」に陥り、発散、吸収ではなく硬直、拒否により、元気の機会を失っているような気がしないでもありません。

しかし、このレーダー機能の動作方向が本来方向に向き、ちゃんと動作するよう暫く訓練するだけで、それは容易に回復できるものだとも思っております。

一刻も早い視界、視野、動作方向の点検、修正が必要なような気がします。

2020/8/12

(うとQブログ ちゃんとした真っ当な交流 事始め)

当店の給料は、他の本場アジア系外国人が経営する飲食店に比べて、悪い給料ではありません。

日本人と全く同格の扱いをしているからです。社会保険、労働保険、その他諸手当完備。

しかし、それでも当店の外国人従業員達はいつもお金にピーピーしております。

それというのも、彼らほぼ全員が故国の家族や親戚に送金をしているからです。月平均で2万円から4万円位。

日本円で見ると大した額には見えませんが、この金額が故国では6倍くらいになるとすれば、受け取り側にすると現地換算で毎月12万円から25万円弱を得ていることになります。

処が反対に、我が国で働いている外国人にしてみれば、現地換算で6倍高い生活費を払っていることになるのです。

なので、ごくごく限られた身の回り品以外はほとんど何も買えませんし、買いもしません。

最近、アラブ諸国に出稼ぎに出ていた東南アジアや中南米の外国人労働者が今(こん)コロナ禍の影響で、故国に送還されたニュースが出ておりましたが、元々彼らのほぼ全員が自国内では生活できない、その家族の生活費の穴埋めに働きに出ているのです。そうして同じように現地では貧しい生活を送っている。

一攫千金の為でも、箔付けの為でも、自己実現の為でもない。家族への送金の為。

そういう事実をわが国民は知っておく必要がありそうです。

そうして彼らにそれなりの尊敬の念を払ったり、労をねぎらったり、手助けをしたりすることが「ちゃんとした真っ当な交流」の初めのような気もいたしております。

受け入れて後、彼らと争わない為には、より高度なスキルを我々自身が身に着けることは言うまでもありませんが。

2020/8/11

(うとQブログ 弊社企業コンセプトの真意)

「世代間、国際間、隣人間交流」が弊社の企業コンセプトです。

世代間、国際間と漢語で書いたので、語呂合わせ上「隣人間」交流と書きましたが、真意は「今あなたの隣にいる人との交流」という意味です。

今あなたの隣にいる人が、老人であれ若い人であれ、男であれ女であれ、同国人であれ外国人であれ、遠くにいる抽象的な隣人ではなく、まさに偶然隣に居合わせた、たとえそれが前掲の中のどの人であれ「ちゃんとまともに交流しましょうよ」という事です。

「誰とでも仲良く」という意味では決してありません。

「ちゃんとまともに」の意味は、喧嘩をしたっていい、決別したっていい。しかし、その前にちゃんとまともに話をしましょうという事です。

「おざなり」や「逃げ腰」や「当たらず触らず」や「毒にも薬にもならない」話ではなく、結果の良し悪しは別として、まずは噛み合う話をしましょうと。

「当たらず触らず」の話でお互い「毒にも薬にも」ならないやり取りをして、確かに身の安全は確保されるのかもしれませんが、それで一生の最後の最後になって

「何も思い出せない、何も思い浮かばない人生」だったら、どうするのでしょう。

他人はおろか、家族との関係においてすら、そうだったら、一体その時、どうするのでしょう?

我々の事業は「その答えを見つけられるかどうかは分からない」が「少なくとも、できるところまででいいから、まずは探し始めてみよう」というのがその核になっております。

2020/8/10

(うとQブログ 我らが飲食業界の状況説明)

「夏草や兵(つわもの)どもの夢の跡」

誰が詠んだ句か忘れましたが、この句の焦点は明らかに兵の悲哀にあたっておりますが、これを書き出しの「夏草」にあててみると、あっという間に地面を覆いつくす夏草の生命力が見えてきます。

かく言う自分の家の庭も、刈っても、刈っても、あとから、あとから立ち上がってきて、たちどころに繁茂してしまいます。

一方その自宅は、コロナ禍換気重視で玄関扉を開けっぱなしにしているせいで、時たま外から「ゴッキー(Mr. cockroach)」が入ってきたりします。

手ごろな叩き棒になるものがないときは、開封前の中身満杯のティッシュの箱で上から爆撃したりしますが「豈(あに)はからん哉(や)」で「なんの、なんの、なんのその」

ぜんぜんびくともしやぁしません(なんせ3億年の生存戦略覇者ですし)

はたまた黄金虫なんかも飛び入ってきたりもしますが、これまたかなりの兵でして、机の上に留まっていて邪魔なので、ポンと指弾きをして床に落とすのですが、裏返っていても暫くもぞもぞした後、また歩き出したりします。

人間に換算すると机から床までの距離はおよそ30メートルの断崖絶壁から転落したようなものなのに、その柔軟性と申しますか発条(バネ)力ともうしますか、驚愕に値します。

こうしてみると「大自然」まで行かずとも身近な自然界ですら強靭な生命力に満たされているようです。

ここはひとつこれに肖って(あやかって)今(こん)コロナ禍を切り抜けたいものだと。

「てめぇ、なにカッコつけて、やがんだ」とお思いでしょうが、逆にそんなものにでも、すがらざるを得ない状況下にあるという事なのです、我々飲食業者は。

2020/8/9

(うとQブログ 100年後の我が国?

もし、自分の奥さんが自分と同じ墓に入らず、実家の墓に入るつもりだという事が何かのきっかけで分かってしまったら、恐らく男子の50%は敢えて苦労をして迄、結婚しようと思わなくなるかもしれません。

しかし、それにもめげず結婚した男子の内、自分で料理が出来るようになったとすれば、その後の家庭生活の窮屈で気疲れが甚だしかったそれ迄の経験から、その50%は結婚しない方がよかったと思うかもしれません。

となると50+(50x0.5)=75%の男子が結婚を望まない事になる可能性が出てきます。

この可能性が実際となった場合、出生率が大幅に低下して、国力を支える為に、その損失分を他の方法でリカバーしなくては国と国民が立ち行かなくなるので、海外からの移住誘致という可能性が大きくなりそうです。

外国からの移住の前に「個々人の生産性の大幅upを」という選択肢もありますが、生産性に関しては、25%(0.25)の逆数4、即ち一人の生産性を4倍にしなくてはなりませんが、それはまず不可能でしょう。

となると、詰まる処、我が国は国民の結婚比率が25%になったことで起こる欠損分75%の海外移民を受け入れざるを得なくなり、凡そ100年後には、図らずも「多民族国家」になっている可能性を否定できないような気がします。

かなり大胆な予測ですが、案外当っているような気がしないでもありません。

男子が女性に求めるものや自分の在り方を変えない限り、或いは女子は、男性の抱いている価値観はせいぜいそんなものだろうという思い込みを正し、自らの「売り」をかえない限り、今の男女にとってお互いは「そうまでしてもずっと一緒に居たい相手」ではないのではないでしょうか。

2020/8/8-2

(うとQブログ 元気のなさの正体 その3)

幅にして、平均台横方向、差し渡し並みの狭さ。

しかもオリンピック会場の衆目集まる中での、高難度技の視線要求。

日々、こうしたレベルを衆目「監視」の中で常に求められているような気がしていれば、とてもじゃないが、おいそれとは登場しにくいでしょうし、一挙手一投足に全神経を集中せざるを得ませんから、身も心もカッチンコッチンになるのは当然でしょう。

そうして、お互い同士が、自分がするときは演技者として、相手がそれを見るときは観客として、或いは相手が演技者の時なら、自分が逆に観客として、相互に縛りあっている。

しかしその観客は、オリンピックの時とは正反対に、相手が演技者の時には、その敵失を密かに願っている。

では、その元は一体何なのか?

それは、我が国国民が古来より珍重してやまない「形式美」への希求が、ある時どこかでねじ曲がってしまい、その後、数限りなく変異を重ねた結果、今の時代において疫病の如く猛威を振るっているような気がします。ワクチンもないまま。

何よりもまず、要求レベルの幅と高さが余りにも限定されすぎ、それ以外は一つ欠けても「全くの無意味」となれば、鼻からやる気がなくなる人がいても仕方ありません。

それも又、元気のなさの原因正体。

何せ最高点が「減点なし」のゼロ、後は引かれるばかりなのですから、やる気は失せ、元気が出る筈もないでしょう。

少なくとも、初っ端くらいは、幅を広くとり、ハードルを下げ「初めだから失敗の百や二百はOKよ!」位にしておいてあげないと、誰一人として「元気獲得競技」に参加する人はいなくなってしまうような気がしております。

「悲しいかな」

2020/8/8

(うとQブログ 元気のなさの正体 その2)

自分がそういう見方をするから、相手も恐らくそうだろうと勝手に思い込む。そうして牽制し合う。

自分がそう思うから、恐らく相手もそう思っているだろうと、またまた勝手に思い込み牽制のし合いを上重ねる。

言動思念が正反対。

気づいていても知らぬふり、見て見ぬふり、気づかぬふり。

そうしてお互い腹の探り合いのスパイ合戦。

それを見透かされぬための厚手のバリアー造りと安全確保の為の十重二十重のバッファー造り。

結果、奥へ奥へと籠り、目深帽子と巨大マスクの間からこっそり辺りを覗いつつ、裏の、裏の、更にそのまた裏の何回裏返したかさえ覚えていない程の、それは元々何の話だったっけ、最初は?と、本人すらも解らなくなってしまっているような状態が日頃の「常態」となる始末。

これでは相手との距離はどんどん遠のくばかり。

相手に元気を与える事での発散も、元気をもらう事での吸収もないので、お互い、元気になりようがない。

そんな風にお互い共々、つまらぬことにエネルギーを無駄遣いするものだから、相互にどんどん疲弊して、元気をなくしてしまう。

何かそんな気がしないでもありません。

昔のTVCMで、凛としたキャリアウーマンが帰宅し、部屋に入るや否や「はぁ~」と大きなため息をついた後、顔をぐちゃぐちゃにして「きゅうりの漬物茶漬け」を貪り食うのがありましたが、何かそんな映像しか浮かんでこないのが寂しいです。

2020/8/7-3

(うとQブログ little bit strange

以下、本日前記事の端折り版でござりまする。

鴨がネギをしょって来、海老が鯛を釣って持参、棚から牡丹餅が、豪華リゾート無料宿泊券付きで落ちてくるような話が一度に起こりかけ、あわや最後の一押しという処で、鴨はネギをしょって逃げ、海老は踵を返して持って帰り、棚から落ちてくるはずだったクーポン付きの牡丹餅は、突如映像巻き戻しで、一転帰巣してしまうような結末が、これまた一度に起こってしまった。

超おいしい話が、at once lost

譬えを重ねて言えば

「美人姑娘、謎の女スパイの色仕掛けに「どんどんして。お願いだから」というような至福と、一瞬にしての喪失。まさに胡蝶の夢が如く。

真昼の蜃気楼となって消えてしまった様な場合。

しかし、それでも思いのほか落胆の水底に沈まずに済む方策、それは気力でも、脳天気さでも、負けず嫌いの空元気でもなく、言ってみれば日頃の「常態(normal)」の取り方のような気もします。

内心「自分は特別な人間である」と無意識にも浸れる幸せな人は、初めはおいしい話に警戒しつつも、最後の最後の土壇場では「大丈夫、俺は特別だから」と一線を越えて失意落胆の海へ。

しかし「自分はどう考えても特別な人間ではない」と本当に思っている人は、多分最後の最後まで「こんなはずじゃない。何かlittle bit strange」という思いが、一線の前で思いとどまらせる。

要するに日頃の「自分の認識の仕方次第」

そんな気がしないでもありません。

2020/8/7

(うとQブログ 我身に起きた、超硬派による「honey trap(甘い罠)詐欺未遂事件の顛末」

「弾丸を受けて怪我したの。紛争地でカードは使えないから現金を送って、ドルで」

もし、インターネットサイトで知り合った、超グラマーでセクシーな、某大国の若い女性軍人から、長い時間のやり取りをした後、こんなメールを受け取ったら、我が国の男子、特に高齢の男子としてどうしますでしょう?

「危を見てせざるは、勇なき也」(我造句)とばかりに、入院費用や手術代金を国際送金してしまうのではないでしょうか。

もう少し具体的に言うと。

仕事がメインの公式サイトで知り合った、某大国の若い女性軍人から「これから某紛争地において、孤立した同朋救助奪還の為の特殊任務に就く」と言われた数日後に「被弾した。

入院しているが、紛争地故、カードは使えないし、病院はどの国でも現金だけだから、至急現金を国際送金して。私を愛しているなら」(被弾した部位の病院での応急手当写真付きで)

というような、緊迫感迫ったメールが「紛争地で怪我をして危ない状態」と思えるセクシー女軍人さんから届いたら「大和魂保持者」の我が国男子はどうするでしょう。

(話はもっと複雑なのですが、分かりやすくするためにかなり端折っております)

当然、なにが何でも、即送金。

しかも、円をドルに交換して、訳の分からぬ振込先に送るために「恋に浮かれた高齢者」は、それが詐欺だという公的機関のアドバイスを、むしろ阻害要因「人の恋路を邪魔立て」する人情を解しない理不尽モノとして、却って送金を通すために「善意の忠告者」に対して「犯罪者側の肩を持つ嘘」をつくかもしれません。

これこそが「軍事兵法の極意。戦わずして勝つ。まずは味方につける事」という例をよくわきまえたやからのストーリーメイキングだと思われます。

我国内においては、コロナ禍で国内の特殊詐欺が横行し、当局による締め付けが極めてきつくなった分「海外送金」という新手法で、お金を騙し取ろうとする新たな詐欺分野が開拓され始めているようです。

その手口たるや、驚愕至極。

彼らの後ろにはストリーライターがいるような気がします。

ただ単に、話が上手いだけではなく、十分に実践的で、且つ弱みに付け込む際の人間心理を熟知し、更には兵法の極意を免許皆伝され、その後、自らそれを悪事に使うことを選んだストーリーメイキングライターさんが、背後に。

この期に及んで、国際レベルのこの詐欺行為を防ぐには、我が国国民としては、国際情勢の知識において「政治」「経済」分野の動向だけでは、明らかに不十分で「軍事上の基礎知識と常識」を食わず嫌いする前に持っていないと、いとも容易く「カモられる」ことは、まず間違いないような気がします。

本日、自らの「助平」なる心があったが故に、危うく、全く未知の「某大国女特殊部隊軍人」による「honey trap(甘い罠)」にひっかかり、住んでのところで餌食になるのを免れた経験をして、このことの恐ろしさと、常にそれが身近に存在していることを、肌身に染みて感じました。

最終的になんでわかったかと言えば「pay attention, too much sweetstory

という過去の恵まれない経験則があったから、銀行での送金審査の際に、敢えて女軍人さんの言う処の禁を破って、恥を覚悟で事実の一端を、銀行側のTVモニター上の審査官にリークしたからでした。

「自分のような男が、女にもてるわけがない。何か変だ。どこか違う気がする」

結果、最後の最後まで残っていたほんの5%の疑問が、自分を救ってくれました。

何事も100%にしない方がいいようです。

2020/8/6

(うとQブログ 元気のなさの正体)

外国の人と接していて、我が国国民の大半の方が抱いている「元気のなさの正体」が見えてきたような気がします。

簡単に一言で言うと

「外と内のアンマッチ」

もう少し説明を付け加えるとすれば

「建前と本音のアンマッチ」

もっと言えば

「見せ掛けと中身のアンマッチ」

「見せたい外見(そとみ)外面(そとづら)とそうはなっていない中身、本心本音のアンマッチ」又は「隠しておきたい秘匿の事実とのアンマッチ」

なので、内と外がほぼ正反対になっている。

「いいよ」は「いやだ」

「いやよ」は「して欲しい(いいわよ)」

「関心ないわ」が「興味津々」とか。

これでは疲れるはずです。内と外との行き来、調整、整合取りだけで。

休む暇がありませんし、一瞬たりとも気が抜けませんから常に気が張ってばかりいて。

元気を出す前に、すべて吸い取られるか、使い果たしてしまって、とても元気を出すどころではないでしょう。

たぶんそれが、我が国国民、大半の方の元気のなさの原因だと思っております。

「生来の自分に素直(すなお)になればいいだけ」のような気もしておりますが。

どうなんでしょうね。

2020/8/5

(うとQブログ かなり助かる話。但し弊社にとって)

世の中には「案外知られていない事実」というのがあります。

或いは全く逆に思われている事実とでも申しましょうか。

例えば、自分に卑近な例で言えば

「バタバタと忙しくしている社長の会社ほど儲かっていない。儲かっている会社の社長は案外、暇なものである」

という事実。

世の中的には、大抵その反対に捉えられております。

であるが為に

「いつもお忙しそうで、誠に結構ですな。儲かって仕方がないのでしょう」

と、お声がけいただくのですが、事実は全くその反対。

儲かっていないからこそ、あの手この手を追加的に打たねばならず、結果として多忙にならざるを得ないのが事実、実態、実相です。

ですから今後は

「おや、お忙しそうで。色々大変ですね、会社が危なくなると。じゃぁ、援護射撃に今度ひとす、お宅のレストランのカリーのテイクアウトか宅配のお願いでもしましょうかね?ディナーのサイドメニューも4,5品くっつけて。あとククリラムのボトルもくっつけて」

と言っていただけると、かなり助かるのですが…

2020/8/4

(うとQブログ くそジジイからのご報告)

飼い犬にもコロナウィルスの陽性反応が見つかったとか。

本日の新聞記事に出ておりました。

人間様は危ないので、成る丈、鳥とかわんこと仲良くするようにしていたのですが、在ろうことかわんこまでも。

そのわんこですが、わんこにも性格があるようで。

臆病なわんこ、気の強いわんこ、仔犬の頃いじめられたのが成犬になってもトラウマとして残ってしまっているわんことか、女好きのわんことか。

特に雄のわんこ同士だと、どうしても性格が合わない相手があるようで、これに会うとすぐに威嚇しあいます。

なかんずく、縄張り争いとなるとムキになったりします。

これを見ると、人間様の男子に瓜二つです。違っているのは二足歩行か四つん這いかとか全身毛でおおわれているか部分的かくらいの差があるだけで、後は殆ど大差なし。

「むきになる。虚勢を張って偉ぶる。負けそうになると尻尾を巻いてすぐ逃げる」

最近わんこの散歩をしながらわんこの方へは全く目をやらずにスマホばかり見ている男子が年齢を問わず多いのですが、少しは愛犬を観察して「(人のふり見て)わがふりを直せ」を自らに当てはめてみた方がいいようなきもしたりします。

以上、自分自身がそれそのもののくそジジイからのご報告でした。

2020/8/3-2

(うとQブログ「一」)

「人の不幸は蜜の味」

この言葉は世界のどこでも同じなのだろうと思っていたのですが、最近どうやらそうでもないらしいと思い始めました。

一方、我が国の社会を表す言葉に「村社会」という言葉があります。構成の中核にあるのは「村八分」の心理。

要するに異質を排除する。異質扱いされる恐ろしさを十分に感じさせて同質である事を強要するとでも申しましょうか。

以上の二つから想起される言葉があります。

「横並び」

人の不幸の件では、相手が自分より先、又は上に行く事への不快感。それをこちら側は何の努力もせず、相手側から自己崩壊して、自分と同じ位置、又は後方に下がる事に対する快感意識。簡単に言うと自分の位置まで引き戻そうとする心理。

村八分の件では、例えばイラストで説明すると、外国では、複数人グループの島があちらこちらに点在している絵になりますが、我が国では99人がぎゅうぎゅうにつまっている島と、一つだけ離れた処に一人だけいる島がある絵姿を想像すれば理解し易いかもしれません。

これらから浮かび上がる漢字があります。

「一」  です。

横並び「一線」と離れ小島を認めず「一島」であろうとする心理を表す漢字が「一」

「一致団結」「一丸となって」「一糸乱れず」

これって何となく「一〇独裁」を連想させるような。

国からよりも国民自身による「相互監視社会」

そう換言した方が妥当かもしれません。

代表例として「自粛警察」とか。

2020/8/3

(うとQブログ コロナ禍最大の恩恵「睡眠時間が伸びた」)

コロナになる前となってからで、自分又は自分の生活の中で、何が一番変わったかといえば

「睡眠時間が伸びた」

というのが一番顕著な差でしょうか。

「ここまで酷いと、小賢しいことをちょこちょこやっても仕方がない。要するに世の中、なるようにしかならない。すべては当たるも八卦、当たらぬも八卦を、出たとこ勝負で切り抜けるしかないみたいだし」

この気持ちを一言、国語辞典的に申し上げますと「ケツヲまくる」か「開き直る」

せいぜいよく言って「肚を決める」か「肝を据える」

昔うつ病が快方に向かいだした時もこんな感じでしたっけ。

「何のことはない。自分は大した奴じゃぁなかったんだ。

出来損ないの小者。

ま、それでいいのかもしれない。自分の身の丈はそこまで。これが自分の分相応」

そんな事情で、今般も睡眠時間が伸びたようです。

2020/8/2

(うとQブログ 黒糸とんぼ)

真っ黒な糸とんぼが、気象異常に見舞われた長雨続きの七月のある日、かなり激しい雨の中を一匹、飛んでいました。

とんぼからみた雨滴の大きさ、強さを人間である自分に置き換えてみると、ハンドボールのゴールシュートが雨あられと降る中を飛んでいるようなものだろうと推察できました。

それでも、黒い糸とんぼは何事も起きていないかのように易々と飛んでいました。

それを見て昔読んだ本の中の一節を思い出しました。

「韃靼海峡をてふてふ(蝶々)が一匹渡っていく」

何とも言えず、胸が熱い思いに満たされました。