2020/7/11-3

(うときゅういっき夜話 言葉をかみ砕いてみよう。本日は「危機管理能力」)

今コロナ禍で経営者に求められるのは「危機管理能力」であると。

しかし、こんな御大層でハイレベルな言葉を使うと却って身近に感じられなくなってしまう気がします。同じ意味でも、使われる言葉によって、印象度、実感度、受体感温度がまるで違ってきます(勿論使われる場面やタイミングによっても)

では、平たく言うとどういうことなのか?

曰く

「世の中、いつ何が起こるか分からない」

「明日は今日と同じとは限らない」

「予想すらしなかったことが、ある日、ある時、突然起こる」

「良いことが起こることはそれ程望まないが、これだけは起こらないでほしいと思うその悪いことに限って、狙いすましたようによく起こる」

「一寸先は、正に闇」

「万全の安心安全手形など何処にも無い(無かった)」

という事を、絵姿を伴ったレベルで想像、実感し、その実感をすべての根底に置いて物事を組立て、発想し続ける臨場センス。

それは、人によってレベル差こそあれ、磨けば誰でも持てるものだと思います。

「能力」の有無とは別物ですから、親からの遺伝形質等、自分以外のせいにもできません。

それを持とうとするかしないかは、まさに個々人の話でしょう。

そう実感するには「危機管理能力」という整った漢語では幾分、役不足な気がいたします。

2020/7/11

(うときゅういっき夜話 「ズレ」)

「なぁんか、ズレてんだよなぁ」

最近そんな光景をしばしば見かけます。

例えば、テレワーク時の朝。

自転車に乗って、そんなにスピードも出ていないのにヘッドギアをし、晴れてもいないのにサングラスをし、自転車上で3密でもないのに黒マスクをし、そのくせ信号は無視して走り去るほどに朝っぱらから「気合」の入っているサイクラーさん。

そうかと思えば、どう見ても過度にカラフルなスウェットスーツやランニングウェアを身にまとい、これまた必要以上に息を上げてやたら「ハッハ」言いながら、なぜか歩道ではなく、よりによって車の込み合った車道を走る、これまた「気合パンパン」なランナーさん等。

「なんで突然気合が入ったのか?」

「なぜ今、気合なのか?」

「コロナになんぞ負けたくはないから?」「ニューノーマルに備えて意識の切り替え?」「はたまた事前準備?」

といろいろ推測してみたのですが、どうも絵姿や光景と思いついた「動機」「起因」「趣旨」が今一つしっくりこない。

で、視点を変えてそれら動機、起因、趣旨を改めて考えてみると思いついたのが

リア充の「証明」

リア充というのは言わずと知れた「リアル生活充実」の短縮語。

しかし、よくよく考えてみれば、リアル生活(現実生活)が本当に充実していれば、何もそれを人様に「証明」をしたり「アピール」をしたりする必要はさらさらないわけだし、必要性すら思い及ばない筈。

だのに、それを敢えてせざるを得ないか、そちらに力点が置かれているのは、正に実態がそうなっていないからの逆証明でしかないわけで。

これを簡単に申しますと

「中身が満たされていれば見せ掛ける必要は感じない。反対に満たされていないからこそそう見せようと、見せ掛ける必要が産まれてしまう」

反対に我々個人事業主は今コロナ禍において、まさに「リア充の塊」となっております。

言わずと知れた「尻に火」状態で、とてもではないですが「見てくれ」や「見せ掛け」なんかしている余裕は皆無ですし、気合が現れすぎて、逆に違和感を与え、それがもとで客離れを起こす心配から却って「入りすぎている気合」を抑える方に、むしろ気が向いている位。

これをまた簡単に言うと「餌を追いかけるアニマル」と化しているから。

アニマルに肩書や衣装はありません。それどころか、特に狩りをする際には目立たないことが最重要です。

その現下、餌を取り逃がすまいと必死になって、アニマル化している商店主から見ると

「気合サイクラー」さんや「リア充ランナー」さんは、獲物を前に突如、旗を振りだしたような違和感と申しますか「場違い感」を無意識にも感得するからなのかもしれません。

おそらくコロナ下での「非日常性」が普段の抑制を吹き飛ばして「こういう状態ならこのくらい派手なことをやってもおかしくは見えないだろう」と思わせたからなのかもしれません。

立場の差がズレを感じさせたのかもしれません。

2020/7/10

(うときゅういっき夜話 「警鐘に見せ掛けた完全なる脅し」)

今回のコロナ禍はじめ、それに起因した経済活動の蒸発や寸断による超収縮や、それまでの過大な経済活動の「付け」が回ってきたかのような気候変動による風水害、或いは今後かなりの確率で予想さる巨大地震の発生も含め、どの地域によらず我々人間社会全体は、現下、まさに現在進行形で、大きな地殻変動の真っただ中に立たされている気がします。

これに対して「国際秩序と連携の在り方」「経済活動とその果実の分配の在り方」「危機管理の在り方」等をひっくるめて、今までの「人間社会の在り方」そのものが待ったなしで、更に深く鋭く地球全体的規模で問われているのかもしれません。

その中において我が国では特に次の在り方の大転換が問われている気がしてなりません。

即ち

「過度の安全安心志向(指向、思考)」の見直し、です。

観察するところ、我々は上記の安全安心と引き換えに、或いは完全に取り違えて、自分の周り不可視な高い壁を張り巡らし、外界に関心を払わず、差し伸べるべき手も出さず、いやむしろ反射的に手を引っ込め、人と直に触れ合うことをある種の「非衛生感」をもって避け、且つまた予防的見地からお互いを密かに相互監視しあい、自分がする監視を相手も又そうだろうと無意識に推測することで生まれる「その恐怖」から、益々高い壁の中で手も足も出せなくなって窒息しかけている。

有体に言えば孤立して「死に体(死にたい、とも)」となっているかのような状態。

それに対し、

まずは、お互い競い合うように高くしてきた「見えない壁」を少しでも下げる方向、即ち全く反対方向に転換する(向きを変える)ことです。

そうしてその先、

困難や自分以外の他者に背を向けて逃げるのではなく、踵を返して面と向かい「立ち向かう」又は「向きあう」か「向かい合う」ことです。

それにはかなり勇気がいります。損失(ダメージ)も覚悟しなくてはならないかもしれません。

しかし、これを今やらないとその先がない気がします。

今、これを我々民レベルで、速やかに転換即実行しないと、自国内或い大方の予測に全く反して、我が国は世界の中で一番先に、没落、崩壊又は亡くなっているような気がしないでもありません。

2020/7/9-2

(うときゅういっき夜話 「ネパちゃん健診顛末記」)

本日、弊社始まって以来の従業員定期健康診断を受けに行ってまいりました。

しかし、そこに行きつくまでが大変でした。

まず、問診票に記入漏れがないかのチェックで、ひと騒動。

だいぶん前の記事で、ネパちゃんことネパール人料理長さんが、自分の子供の誕生日すら覚えていないのか?と大騒ぎになったことがありました。

しかし、そんなのは序の口もいいところで、何と今日は自分の歳や生年すら覚えていないことが発覚。慌ててそれらが記載されている在留カードを探すも、そのカードは持っておらず、スマホの中に保存されている筈のカードの写真すらなかなか見つけられない事態。

それでも事なきを得たのは、余りに自分が何回も役所や入管に提出する彼らに関する書類を作っていたものですから、生年についてはうろ覚えながら記憶があり、それ以外手立てもないので、生年はそれとし、そこから逆算して年齢を割り出した次第。

で、そのまま「えいやっ」とばかりに記載。

で、次なる試練と申しますか珍事は、バリウム胃部検診の場で発生。

自分も久しぶりにこの検査を受けて、オペレーターのアナウンスに従がって、左転したり右転したり、逆さになったり腹ばいになったりとかなりアクロバティックに体を動かしたので思ったのですが「一体こんな指示を、日本語が碌にできないネパちゃんは理解できたのだろうか?」という疑問が湧き、検査後オペレーターさんに訊くと

「あ、結局、検査できませんでした。こちらが言っていること全く分かっていなかったみたいで、本人もこちらも諦めざるを得ませんでした」

と。

えーつ、何?一般的な検診では、検査項目が少なかろうと、資金逼迫の折、何とか遣り繰りし、1ランク上の健診コースをやっとこどうにか選んだのに、その大枚は無駄金になってしまったということ!?

で、いささか腹の虫が収まらないので、健診後本人に

「てめ、何やっとぉ!!大枚、無駄になったやぁないけ!!

と怒鳴りつけると

「ミルク、ダメ。ミルク飲むと神様怒る」

どうやら、宗教上の教えで牛は神様の使い。牛のミルクはご法度、ネパちゃんはバリウムの色を見て、それを牛乳だと勘違いしたようです。

で、そもそも回転式検査台に上ることすらなく、バリウムを飲むか飲まないかレベルの喚問で、脱落または拒否したのが事の真相のようでした。

しかし、一事が万事こんな調子。横に付き添っていないと何をしでかすか分からないところが多々あって、何となく自分は彼ら園児を引率する「幼稚園の先生」みたいな気がしてきました。

そういえば在留期間中、他職場での検便、検尿もしたことがないらしく、止む無く一からそのやり方をトイレに実際に連れて行って疑似実演を交えて手ほどきした次第。

一体どのレベルまで、面倒を見ればいいのか?最近よくわからなくなってきました。

コロナ禍なのに、とても商売どころではありません。

2020/7/9

(うときゅういっき夜話 「ジジイの大反省」)

「風林火山」

「大胆にして細心」

「多にして一(いつ)、一(いつ)にして多」

と思いつくままに、三つ成句を並べてみて思い当たったのが「偏り(かたより)」という言葉でした。

「風林火山」とは嘗ての武将武田信玄公が旗印にした文言で以下となります。

「速きこと風の如し、静かなること林の如し。激しきこと火の如し。動かざること山の如し」

次の「大胆にして細心」とは、自分が知る限り彼の巨匠黒澤明監督に冠された言葉です。

そして最後の「多にして一、一にして多」は自作で、般若心経の「色即是空、空即是色」からの連想です。

で、こうつらつらと成句を並べてみて「何が偏っているのか」といえば、戦後生まれ、戦後育ちの我々老人は、知らず知らずの内に上記文言の中の一部の文字のみを偏重してきたのではないのかな?ということです。

何の事かを申し述べさせて戴きますと、元々これらの成句は「両極の中での変化、変動」を表しているのですが、実際には

「風林火山」の内の「動かざること山の如し」の「不動」のみを珍重。

「大胆にして細心」の「細心」のみを偏重。

そして「多にして一、一にして多」の「一」のみに傾重と。

纏めると「不変不動」且つ「微細精緻」で「均一一丸」がわが国民性と相まって戦後「海外貿易」により「奇跡の復興」と称される我が国の繁栄の元となったような気がしますが、現下においてはその成功体験の呪縛から、却って「風林火」の「動」や「大胆にして細心」の「大胆」、「多にして一、一にして多」の「多様性」の部分がなおざりにされたまま時代の変化についていけず、硬直化したまま置いてきぼりを食っているような気がしたのです。

ところが我々ジジババは、過去の成功体験からそのことをなかなか受け入れられずに、何とか権威を維持し、それを若い者に認めさせようと「虚勢」「意地」や「沽券」を必要以上に振りかざしているような気もします。

今回のコロナ禍で図らずも露呈した大企業やお役所の見事且つ致命的なまでのDX(デジタルトランスフォーメーション=世界潮流であるデジタル変革)への遅れも、何のことはないその一端が現れたに過ぎないのではないでしょうか?

緊急時に際しての役所手続きの目詰まりや危機に際しての初動の遅れ(不動さ)や変わらぬ横並び意識からくる大胆さの欠如、男気、思い切りのなさ等々は、何のことはない若い世代から始まったことではなく、我々老人から既にその種を撒き続けてきたような気がしてなりません。

そうしてそれを若い世代のせいにする傲慢さも。

道を譲っても礼を言わない無礼。周りに対する気づかいのなさ。レジ袋有料化やつり銭のトレー置き渡しへのイチャモン。反面、見て見ぬふりをする事なかれ主義や臆病。今少し我々老人は世界の変化を素直に受け入れ、聞く耳を持つ謙虚さにそろそろ思い当ってもいいような気がしております。

自らへの深い反省から。

2020/7/8-2

(うときゅういっき夜話 「前向きな闇談合の勧め」)

以前にも別なところでちょっと書いたのですが、困難あって最後はめでたしめでたしの「ハッピーエンド」のその後日談はないのかな?というお話。

で、本日は、話をやや斜めに振って、困難ばかりがあって何も解決しないままになっていた「報道内容」の後日談はないのかな?という改題版。

コロナと言ったらコロナばかりの報道。

九州激甚水害といったら激甚水害ばかりの報道。

で、仮に今度は首都圏直下型地震が起こったら直下型地震ばかりの報道になるのでしょう?

我々視聴者から見れば、その報道が画面上、為されなくなったら、あたかもその案件、事件、災害が消えてなくなったような、解決してしまったような印象や錯覚を抱いてしまう傾向があるのですが、実際には報道がされなくなった後も、その場その地では困難や戦いが消えてしまったわけでも解決したわけでもない筈でしょう。

場合によってはそれらが積み重なって二重苦、三重苦になっている場合だってありそうです。

本件については見る側にも確かに多々問題はあるのですが、同じく報道する側にも多々問題がありそうです。

「おい、今日お前のところ何を流す?えっ?じゃぁ、うちもその辺で一線並びにそろえておくわ」

と、言わずと知れた、世界に有名を轟かせたる、我が国サラリーマン報道機関の「突出を避け、石橋をたたいても渡らぬ横並び意識丸出し報道」

で、その結果どのチャンネルを見ても同じような報道内容の山、山、山。

もううんざり

「あ、省も懲りずに、またやってらぁ」

であるなら、被災者、被災地の為にも、局の為にも、見る側の見識の為にも、三方両得になるよう、

例えばこんな風にはできないものでしょうか?

A局はコロナ、B局は水害、C局は地震を流そう」

となると各局財務担当さんや政策プロデューサーさん側は必ずこういうでしょう。

曰く、それでは視聴率(実入り)に差が出て、どの局も貧乏くじを自ら進んで引くわけがない、と。

であるなら、上述の日々行っているプチ闇談合を逆手活用して

「こと国民的有事の報道に際しては、報道同時間帯の広告料収入は各社合算の上、後日均等割り配分で行きましょう」

とか、柔軟な運営で役割分担するとか言った発想は起きないのでしょうかね?

資本主義陣営であり、自由主義国家であるはずの我が国の報道機関が、戦後いつまでたっても戦前の大政翼賛会発行大本営報道と同等、アジア大陸の端っこにある「どこぞの国」と同じ傾向というは、いささかどうなのかな?と思うことが多い昨今でございます。

(追記:この選択肢の狭さ、硬直性から、国民諸氏、特に若年層はTV番組を捨て、自分で選択できるネット(記事・番組)に流れているやもしれませんね)

2020/7/7

(うときゅういっき夜話 「役所後進国」)

今日は一年に一回、牽牛と織女が天空で逢瀬を重ねる「七夕」の日であり弊社の給料日でもあります。

とうとう弊社もこれまで、堪えに堪えてきましたが、今コロナ禍での急激な業績の悪化に伴い、万やむを得ず今月分から給与カットに及ばざるを得ない事態となりました。

業績悪化は40%のダウン。しかしそれを諸に従業員給与に反映したのでは、社員の生活が成り立たなくなりますので、カット幅は10%のダウンにとどめる旨、昨日従業員を呼び集めて説明致しました。

一方、今月9日には社員の定期健診を行わねばならず、この費用が法人会の割引を適用しても3人で7万円弱かかります。今回弊社としては創業3年目にして初めての社員健康診断ですので、出費は臨時経費扱いとなり、その財源として代表取締役自分個人に支給される筈の特別給付金(例の国民全員に10万円)を想定していたのですが、これが待てど、暮らせどやってこない。

ならばキャンセルするかといえば、外国人従業員とて人の子。特に今コロナ禍やこれから到来する夏場の食中毒季節を迎えるにあたっては、飲食業者は何よりも社員の体調管理に注意を払わなくてはなりませんから、そうやすやすと止めるわけにはいきません。

それで万やむなく、上記給与カットを今月支払い分からする事態となった次第。

かくいう自分は元々会社からの給与は当初より0円なので、引きようがありませんでした(年金のみで暮らしております)

ですが今朝、ここまで考えてはたと思い当たったのが、自分に10万円が振込まれないためにこれだけ困窮するという事は、距離は相当離れているのですが、同市内に住む外国人従業員とて同じ事態。要するに未だ未給付で自分と同じく困窮が予想される。

で、これまた考え直して、その給付金が彼等に支払われるまで、今月の給与カットは先送りしようと。

大企業であれば、7月の業績悪化は半年後の12月のボーナスや下期の給与からタイムラグを置いて反映されるのですが、極小零細企業の弊社のようなところでは、そんな余裕もなく即座に断行しないと明日からの資金繰りに困ってしまい、食材の仕入れすらできなくなってしまうのです。

で、更にさらさら仕方なくその費用の捻出先として、2台ある宅配車の内、来月更新を迎える一台分の車両保険更新を止める事にしました。要するに「一台は運転しない」

ところが、こういった水面下でのやり繰りや地獄の懊悩を知ってか知らずか、わずか200メートル先の隣接する市では6月半ばに給付金が既に払われているのに、当市の住民は未だそれを受け取れていない現実は完全に棚上げして、同市やその地域内の市税事務所からは、マイナンバーが済々と稼働していれば一回で済む筈の同じような提出書類が何の改善反省もなく縷々続々と送付されてくるばかり。

今コロナ禍、他国比まさに「役所後進国」

いい加減にせんかい、アホンダラ!!

と言いたくもなります。

2020/7/6

(うときゅういっき夜話 「それでは、コロナ禍に於ける時節柄の長句をば、一首」)

裾野、広ければ山高し。

裾野、狭ければ山低し。

裾野、広げんが為に、せっせこ、せっせこ、耕し(たがやし)中。

耕し中は実入りなし。

実入りなしにて、赤貧中。

赤字続きで、節食中。

外出自粛で、お昼寝中。

開店休業、お手上げ中。

お手上げついでで、阿波踊り

「エライこっちゃ、エライこっちゃ、ヨイ、ヨイ、ヨイ、ヨイ」

踊って凌ごう(しのごう)コロナ禍大風、笑って過ごそう,生き地獄

笑う門には福来る。待てば海路の日和あり。赤子泣いても蓋取るな。

金がなければ知恵を出せ。

智慧がなければ汗を出せ。

汗も出せねば、屁でもこけ。

屁すら出なくば、走りだせ。

とにかく何かをすることだ。

とにかく何かをすることだ。

最期の一手はそれだけだ。

(詠み人:飲食業界 ネパールカリー屋「 ナマステエブリバディ」亭主)

2020/7/5

(うときゅういっき夜話 「ごもっともなお怒り」)

民のほとんどの「ガス抜き」が封鎖された感があります。

一例を言えば、7月4日は米国の独立記念日。例年ならたいそう盛り上がっていた日です。

我が国でも、夏祭りやら花火大会なんかが封印されそうです。

そもそもこういったお祭りは、日頃シンドイ思いをしている庶民の数少ないガス抜きの役目を果たしていたと思います。

がしかし、今回のコロナ禍で、それが一切ダメ。

じゃあ、集団でダメなら、ガス抜きとして仲間同士で愚痴のこぼし合いをしようにも、2メートルディスタンスで、ひそひそこそこそ話もできない。何故なら2メートルも離れて愚痴を言えば、その他大勢の無関係な人にまで、愚痴の内容を聞かれてしまうからです。

というわけで、民のガスは出口を失っておなかの中に充満するばかり。

その一方で、人間様の身勝手な所業に怒り狂っているのか、天はその他の風水災害で、我々を苦しめております。

例えば、我が国の今回の九州での大雨災害。

身勝手な所業は都市部の方が遥かに上だと思うのですが、何故か天は、殆ど罪のない田舎の過疎地域を中心に怒りを表しているようで、その辺、それ自体も何か的外れでいい加減な気もします。

事程左様に、すべてがちぐはぐで、起承転結がまるで成り立たない筋書き無き、いや、海路図、灯台なき暗黒の航海のような感じです。

我が店も6月、つまり先月は売上4割ダウン。今月、7月は更にそれを下回りそうな予感。

お客様も夏のボーナスは減り、冬は時間差効果で更に減るや、もしれず。

年金生活のお客様とて、安心はしていられないでしょう。これだけお国が大盤振る舞いをした後、年金支給額の見直しが予想されるからです。もちろん下方修正に。

かくして我々民は、ガス抜きを止められ、天災に叩かれ、続いて経済災にも腸をくりぬかれそうで、立っていることすらままならぬ状態。

下はガス栓止め。上はおまんま喰うな、の口減らし封じ。おまけに全身、水でずぶぬれ状態とも。

踏んだり蹴ったりの中、不安は増大するばかり。賃金は下がり、血圧だけが上がる昨今。

はてさて、どうしたものか?

これはもう、経済「災」を何らかの施策で経済「祭」に変えるしか、ないようです。

「で、あんた、その具体的アイデアあんの?」

「はぁ、そこがまだ今一つ…」

「馬鹿じゃないの、アンタ。話、聞いただけ、損したわ」

非才嘆くも方図なし。

「はい。ごもっともでございます」

2020/7/4-2

(うときゅういき夜話 本当に言いたかった「ニューノーマル」ビジネス)

直近の記事で書いた内容で、何かいまひとつ率直に書きたいことを探り当てていないな!!と。

何か言いえていない。なんとなく不完全燃焼。

で、そんな気持ちで仕事の後、自宅一人の飲み会を自宅でしながらテレビを見ていたら

「琴バスのバーチャルツアー」の映像が流れました。

もちろん、今コロナ禍での売り上げ激減の回避策の一例としての特集でした。

そうして、そのツアーを終わった後の全国からのバーチャルツアー参加者の感想

「参加してよかった。なんというか、参加してよかったなぁって」

映像を見る限り、現地に行った方がよっぽどいいことが分かりましたが、それでもそれをいいという参加者の顔を画面で見る限り、取材対応で作っているようにも見えない。

多分、本当に良かったと思ったんだろう。

では、何故?

自分の見ているバスツアーとして、それほどのレベルではない映像と、参加した人の決して嘘ではない満足の違いは?

それで思ったのですが、参加された方は、参加したバーチャルバスツアーの行った先の映像に感動したわけではなく、むしろここまで、映像のほかに、参加した気分になるスタッフの流す現地直で張り付いてのライブ映像だとか、立ち寄り先の事前配布(郵送)の昼食やお土産などの、計り知れない努力に対して、同じ働くものとして「ここまでやるか!!」という琴バススタッフの涙ぐましい努力に対して

「感動をした」からなのではないかな?と思った次第。

その現場に立ち会うことができたという満足感と稀有の事態に接したとう希少価値が生み出す、子供時代以来長らく忘れていた「新鮮な」感動。

まさにこれからは、モノより金儲けより「感動を一番欲しかったものとして価値と考え、それを提供することを喜びと考えビジネスの根幹に置く」新しい時代に入りつつあるのではないか?そんな気がした次第です。

そうして、上述の違和感の答えとして「感動を一番の価値とする」ことが本当に自分の言いたかったことのような気がします。

「ニューノーマル」が今後のビジネスの適者生存条件の必須条項であるならば。

2020/7/4
(うときゅういっき夜話 「大いなる誤解の元」?)

前回の記事同様、これまたうろ覚えな記憶で誠に恐縮なのですが、
「大昔、傲慢になった人間たちが天に届こうと建造物を作り始め、それに怒った神さまが、天に向かって建造物を建てる共同作業ができないように「言葉」(会話、コミュニケーション手段)を奪ってそれを阻止した」
という話を思い出しました。
この譬えが、以下の話にそのままコピーとして当てはまるということではないのですが、昨今のコロナ禍対策で「ソーシャルディスタンス」「非接触」「テレワーク」などの言葉や要請を見聞きすると、一つには傲慢になりすぎた我々への天からの戒めのようにも受け取れますが、自分には、そのことよりも更にある種の「大いなる誤解」の元になるのではないか?という心配の方が先に立ちました。
どういうことかというと、上述の言葉や要請は、元々は安全確保に由来した万やむを得ない措置なのですが、これが進みすぎるとコミュニケーション不足による「孤立」や「幻影」がもとになって「暴走」や「分断」果ては「敵対」や「憎悪」が生まれやすくなるのではないかとの危惧のことです。
いくら安全確保のためとはいえ、これはあくまで「当面」の話で合って、決して望ましい姿ではないという認識が必要かと思います。
本来人間、いや、生き物は「接触」や「ハグ」「人肌のぬくもり」を求める存在だからです。原始時代、まだ疫病という概念すらなかったころには、原始人の家族がこの病にかかって倒れたりすれば、却って抱きしめて労わり、それが逆に更に疫病を蔓延させたことだって考えられます。
ところがそれらに反して「ソーシャルディスタンス」はじめ「テレワーク」など、扱いを誤るとさらなる疎遠、疎外の元にしかなりかねない方策方図を、ただ単に一括して「ニューノーマル(新常態)」と称し、あたかもそれらがこれからの正解のように伝播させるのはいかがなものでしょう?
これらは決して「新常態」などではなく「一時的回避施策」に過ぎないのではないでしょうか?(もう少し正しく言うと「新常態」ではなく、我が国で個別的に使われだした「新生活様式」という言い方の方に問題があるとも思いますが)
だとすれば、別に折衷案を出すつもりはありませんが、それを「ニューノーマル」に昇華させたいのなら
「ソーシャルディスタンス」はお上の密室談合の場に推奨し、
「テレワーク」は都市一極集中の歯止めとフリーランス育成に使って、社会構造改革を推進する一方、人と人の本来の姿である、生物由来のコミュニケーションを取り戻す上では、却ってその言葉が無思慮(自動的)に生み出す悪しき産物である疎遠と疎外を戒め、「分断」や「敵対」を産まないように気を付けることが大切な気がいたしました。
なんだか最近、すべてについてポイントがずれているような気がしてならないのですが、どうお思いになられます?皆様方は。

2020/7/3

(うときゅういっき夜話 「奥ゆかしい」経営を目指す?)

今、自分が事業をしているうえで、最大の過ちは「絶望しきっていない」ことのような気がしてきました。

12年間に渡るうつ病が快癒した最大のきっかけは「自分に絶望しきった」ことであったことを思い起こすと、どうも今コロナ禍の飲食店事業運営に於いて、中途半端な打開策や延命策に無意識のうちに安堵してしまっていて、根本的な手が打てていないような気がしてきました。

いや、もう少し正確に言うと「絶望」ではなく「うんざり」仕切ることでしょうか。

これだけでは何のことかよくわからないと思いますので、幾分注釈を付け加えさせていただきますと

「お金や既得権、これまでの常識といった手垢にまみれた今までのすべてにうんざり。特に今コロナ禍を切り抜けようと「見せんが為に」ああでもない、こうでもないと喧しい(かまびすしい)メディア記事にうんざり。特に識者の「得意顔写真入り」記事、言い換えると「我こそ一番の広告臭ふんぷん」記事にうんざり」ということです。他にもいろいろありましたが、一番実感をもって感じられたのはそのことでした。

ちょっと感覚的な物言いになりますが、量的拡大による「圧倒」

位置的高さの延伸による「見下し」

費用対効果の超希釈による「はったり」

などなど、余りにも露骨で「慎みがない」ともうしますか「奥ゆかしさに欠ける」とでももうしますか、一言で言うと「度を越してえげつない」世界。

それらに本当に「うんざり仕切る」ことが今一番の急務のような気がするのです。直感的には。

例えば上記で述べた広告を例にとると、現実世界ではありえない「私が一番、私ってすごいでしょう」という今の基本的な姿を改めて、敢えてこちらからは何も言わず黙っている。但し、喧伝や宣伝はしないが、日々の努力は、表面涼しげな顔の水鳥の足掻きが如くに水面下で営々、黙々と続ける。

そうしてその事実に、こちら側からのアナウンスではなく相手側からの気づきによって発覚した時の「驚きと感心」のインパクト(波及臨界点)効果を待つ。そういった奥ゆかしさ。

この日本語の「奥ゆかしさ」の語源は、自分のうろ覚えな知識によれば、江戸時代、為政者より町家に対して華美装飾を慎むようお達しが出たのに際して、これら町家が表に面した間口は狭くとったものの、表に現れない奥行きをずっと伸ばした建築様式に替えた、その「奥行き」に由来しているもののようです。

曰く表は狭く見えるが「奥行きが深い」

で「奥が深い」ことを敢えて言わずにいることを「奥ゆかしい」と。

今般、このコロナ禍をきっかけに広告に際しても、弊社の経営に際しても、こういった方向に大転換できればいいなぁと思い描いてはおります。

まだまだ実力は遠く伴っておりませんが。

2020/7/2-2

(うときゅういっき夜話 コロナ禍での「新鳥獣戯画」)

朝、たまたま床に目をやると、かなり大きな足長蜂が息絶えて転がっておりました。

昨夜、仕事中にボッコンボッコンと、五月蠅いくらい何度も円盤系の蛍光灯に体当たりをしていた奴のようでした。

「これだけの体で体当たりをしていたなら、あれだけの音がしても不思議ではないな」

しかし、それにしても今コロナ禍で

「通常エアコンは換気機能がないので、成る丈、エアコンをかけずにこまめに空気の入れ替えを」

という助言に従って、夜は、玄関扉と反対側の窓を開けっぱなし(自分が起きている間はですが)にしていたにもかかわらず、なんで死んでしまったのだろう?と不思議に思いました。

つまり

「扉があいているのだから、外に行けば餌にありつけたはずなのに、衰弱死するまでこの部屋にいたなんて。何故なのだろう?」

ということです。                                                  

それで思い当たったのが

「虫の習性である集光性に従いすぎて、扉が開いていることに全く気付かなかったからだろう」

ということでした。

で、その先不図思いついたのが

「我々人間にも同じことが言えるな。一つのことに目がくらんでいると、肝心要の大切なものやそれ以上にいいものの存在を見逃してしまうことがある。例えばお金。

それにばかり気を捕らわれていると、何か大切なものを見つける出口を逸していることだってあるのかも」

でその先更に

「自分が電気を早めに消していれば、この足長蜂は助かったかもしれない。玄関扉が開いていることに気づいて」

で、さらにそこからまた想像が膨らんで

「今コロナ禍は、天が人間にお金や過度の快適さという「電気」を消して、他にももっといい出口があることを示しているのかもしれないぞ」

と、思い始めました。

たかが、虫の死骸が一つ転がっているのを見つけたからと言って、そこまで考えるのは度が過ぎているのかもしれませんが、最近周りの「鳥獣」たちが、ある「戯画」を自分に示してくれているような気がしてならないのです。

だんだん頭がおかしくなってきているのかもしれません。

昨日も自転車に乗って買い物に行って、自転車を置いたまま買い物袋だけ下げて歩いて帰って来しまいました。

それに気が付いたのは家に帰ってきてからでしたから。

2020/7/2

(うときゅういっき夜話 「コロナ禍後の希望的観測」)

コロナ禍後、我々の意識がどう変わっているか?

それをちょっと想像してみました。もちろん自分なりにですが。

まず、

「国も役所も会社も地元自治会も思っていたほどあまりあてにはならなかった」

「近所の付き合いや会社の付き合いもなんとなく嘘だった気がする」

「ただ、反対にマスクの件で、人の目の怖さと息苦しさだけを強く感じた」

「これは一体何なのだ?」

「確かなものも頼れるものもほとんどないことが分かってきた」

「結局、他に依存していたらだめかもしれない」

「自分のことは自分に従って決め、自分で動くしかない」

「自分の主を自分に取り戻そう(今までは他人が、世間が主だった)」

「だとしたら、働く時間も場所も決められたり、縛られたりしていたけれど、これからは時間も場所も自分で決めるようにしたい」

というわけで、社会においてはフリーランスが、会社内においてもフリーランス的従業員が増えるのではないかなと思います。

それを一言で言うと

もはやどこにも「寄らば大樹の陰」はない。

大樹の陰の元の「大樹には、自分がなるしかない」

ということになるのではないのかな?と思っております。

かなり個人的且つ「そうなってほしい」という希望的願望乃至は観測ではありますが。

2020/7/1

(うときゅういっき夜話 「本当に怖い話:もう勘弁してください!!」)

コロナ禍で、いや不況下全般で、目の前の生活苦や不安から単純な事実が常に忘れ去られます。何かというと

「生産者は同時に消費者であり、消費者は同時に生産者である」

という事実です。

何のことかというと、生活不安から消費者がお金を貯めこんだり使わなくなったりするとモノを買わないわけですから生産量は激減します。生産量が激減すれば当然生産者の給与は減るか解雇になりますから、今度はその裏返しで益々消費量は減るわけです。そうしてこの悪循環から益々不況は深刻化するわけです。

一方、お金の量そのものが減少しているかといえば、そんなことはないようです。なぜなら各国政府や中銀は、不況対策として低金利のお金をどんどんつぎ込んでいるからです。ある意味マネーはジャブジャブ状態です。

ですが、そのお金がどこに行っているのかといえば、どうやら殆どが肝心かなめの「庶民の懐」へは向かわず、株式や商品先物などの金融市場にのみ向かっているようです。或いはそれを動かすことが出できる一部の人たちの元へのみ向かっているようでもあります。

これだけ不景気なのに、それと全く乖離した実感の伴わない昨今の株価上昇はその表れかもしれません。

要するにお金は限られた「あるところ」にのみ偏在し(かたより)、また死蔵(ねむってしまう)為に不景気が更に深くなるわけです。

と同時に格差が拡大し、国民の間に不満がたまってきます。

こういう場合によくあるのが、そのガス抜きと自らへの批判をかわすために外部を敵として喧伝し、その矛先をかわすという手段です。

簡単に言うと「戦争を起こす」ということです。

保護主義、自国第一主義、民族主義の焚き付けと台頭は、それを如実に示している気がします。

戦争をすると多くの人が犠牲になりますが、反面軍需産業などすそ野の広がりが多い産業の活発化で自国民の雇用が賄われる面もあることに為政者は注目するわけです。

直接ではありませんが、戦後我が国の奇跡の復興の裏には「朝鮮動乱」という戦争があり、その軍需産業の下請け策の効果があったことは否めません。

なんだか、本当に怖くなってきました。

やはり歴史は繰り返されるのでしょうか?

また多くの家族が泣くことになるのでしょうか?

もう、勘弁してください!!

2020/6/29

(うときゅういっき夜話 「退職後の人生大なしの元?」)

「人生の前半は自分を育て、人生の後半は人を育てる」

であれば、次世代につながって、ことさら「自分劇場」の終わりでしかない「終活」等という妙な区切りをつけなくても済むのに

「人生の前半は自分を育て、人生の後半は、それを手放すものか!!の既得権お化けになる」ものだから、それを失うまいと無理な守りに入り「虚勢」「張りぼて」「意地悪」「貶め」などなど、変なことに血道をあげるようになっているような気もします。

特にそれが退職者の後半人生を台無しにしている元のような気がしないでもありません。

それをやめて、それに使っているのと同等のエネルギー量を後進育成のために使えば、かなり豊かな後半人生になるのではないのかな?と時々思うことがあります。

特にコロナ禍の現在は、そう思うことが増えました。

2020/6/28

(うときゅういっき夜話 この地に店を構える理由)

コロナ禍猛威の中、既存のものが大きく揺らぎ始めました。

巨大企業といえども、財務基盤の弱いところは存続できない可能性が出てきた。同じく国家といえども、財政基盤の弱い国々は亡国の可能性も出てきた。

また、個人レベルでは、弁護士や税理士、公認会計士でも喰えなくなってきた世の中で、それでも「喰いっぱぐれのない」職業として絶対的地位を保ってきた「あの医者」ですら、コロナ感染を恐れる来院診察者数の激減で、大病院はじめ個人開業医の別なく閉院、閉所の可能性が出てきました。

これらの現象を大胆かつ非常に単純な言葉で言うと

「すべての肩書(社会におけるその人の属性)が剥がれ落ち始めた」

ということではないでしょうか。

国家公務員の肩書。一等国の市民であるという肩書。グローバルな巨大企業の社員という肩書。弁護士、税理士、医者という肩書などなどが突然色褪せはじめ、ぺらぺらの紙切れのように不確かなものに感じられ始めた。

同じく素材としては単なるか紙ペラでしかなく、国家という発行体の信用に準拠した札束(紙幣)すらも、コロナの前でその発行体の存立が危うくなれば、絶対的なものとも思えなくなってくるかもしれない。

要するに今まで人間が信じ込み築いてきた信用や価値、それとその集積体である人間社会そのものが揺らぎ始めたということなのかもしれません。

となると、これはもうリーマンショックどころか、1929年の大恐慌をも超える、いや全く異質の大転換期に突入している可能性をも思考野に入れる必要がありそうです。

となれば、今回のコロナ禍は、最早「単なる経済対策」だけでは意味をなさないことも予測されます。

今の社会人から、肩書とお金が剥がれ落ちたときに、いったい何が残るのか?社会の最小構成要素である個々人に何が求められるのか?或いは個々人は何によって存立、存続しうるのか?

一言で言えば

「何を頼りにすればいいのか?」「それを頼りにすることで希望が持てるのか?」

残念ながら、現時点自分は、その答えを持ち合わせておりません。

ですが、ただぼんやりながら思うのは、肩書や財を取り除いた「生物由来の真水部分(apple to apple)の人間(関係)」の中にヒントはありそうな気だけはしております。

これまた、実感的に申し上げますと、

定年を迎えて肩書もなくなり、収入も激減した我々退職者に「何が残っているのか?」それらがなくなっても我々退職者は「価値を産めるのか?」

更にザックリ言えば「元気に輝けるのか?」

それが問われているような気がしております。

その答えを見つけたいが為に、高齢になりつつある年金生活者の多い、この団地群の一角に大赤字を続けながらも去らずに、ジジイの自分は、この店を構えているような気もしております。

2020/6/27-2
元々ダメ元ですから。とにかくやってみることにしました。

2020/6/27

(うときゅういっき夜話 破れかぶれの「ボケ談話」)

「金の生(な)る木」どころか「借金の生る木」ばかりが56本も生えているような状況ですので、いい加減うんざりして、ボケ談話をひとつ。

早朝、お店に向かって歩いていると、電柱の上の方からカー公が、いつもと全く違う音色で

「あはははは!!」と見下すように高笑い。

「はん?うるせぇ!!こちとらお前になんぞ笑われる筋合いなんぞありゃしねぇ。お天道様になに恥じることなくまっとうに生きているんだから、笑うんじゃねぇ」 

次にいつもの中継地点のコンビニによると、今度はハトと目と目が合い、何やら物欲しげに近寄ってくるので

「金もエサもねぇ。悪いがほかを当たっておくれ」

というと、突然ハトはパッと飛び上がり、自分が立っている真横の柵に留まって、何やら言いたげなので

「何もないんだってば。代わりにお前が何か持っているんだったら、置いて行ってくれよ」

と心の中でいうと、分かったのかわからないのか定かではありませんがハトは「頼られても。頼ってはだめ」とでも言いたげに、パッと舞い上がりどこかへ、飛んでいってしまいました。

次は、夜。

カナブンが飛んできました。カナブンは黄金虫とも言い、童謡では

「黄金虫は金持ちだ。金蔵建ぁ~てた、蔵建てた」

のはずが、金目のものは何も持って来ず、代わりに灯りに引き寄せられるも、目が悪いのか、その辺の壁に意外なほど大きな音を立てた何度もぶつかり、挙句の果てに、自分が仕事をしている机に来て、机の上に敷いてあるガラス板で滑って転び、でんぐり返って起き上がれなくなったのですが、それでも何とか試行錯誤の末、起き上がりました。

カナブン(黄金虫)君には、転んだらすぐに駆け寄ってきて抱き起してくれるお父さんもお母さんもいないわけですから、自力で元に戻すしかないのです。

一方、万物の長である人間様世界はというと、コロナ君のせいで、これはもうめちゃくちゃみたいです。

お金に絡む悪事、不祥事、意味不明の珍事、乱事、頓事があちこちで頻発。

コロナ君に加え、台風、風水害、直下型地震の同時襲来の憂慮の他、世界の為政者様方は「再選」や「基盤固め」の為に理性を失い、民を犠牲にしてまでやりたい放題。更には時代の寵児ともてはやされた、質実剛健で知られるある国の「フィンテックの雄」が監督官庁すら見抜けない悪事のやりたい放題。

それやこれやで、気が付くと「えっ、これも?えっ、そんなことまでも」と手の施しようもないくらいの断末魔の大混乱が如き展開。

それやこれやの事柄を見ると「人間様なんて、たいしたことないなぁ」と。

そうしてカラスが笑ったり、ハトが何か言いたげに近寄ってきたり、カナブン(黄金虫)が必死の自力ででんぐり返しを元に戻そうとしたりしているのは

「あんたらもう少しまともになったらどうなの」

と言っているような気がしないでもありませんでした。

本日は、破れかぶれの戯言でございました。

2020/6/15

(ナマステ別館堂出版からのお知らせ)

ナマステ別館堂出版発刊の

 

「人生終わったな」と思う間もなくトンネルの、闇を抜けて広野原

 

明日16日より5日間、Amazonkindleでの購読が無料になります。

ご興味のある方はどうぞお読みくださいまし。

 

ご無料購読は こちら です。左の「こちら」をクリックするとAmazon kindleサイトへ移動します。

 

また、Amazon kindleで購入した電子書籍をお読みになるのは、Kindle読書アプリ(無料)が必要です。(iOSAndroid・パソコン(MacWindows)版があります)

詳しくは

https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/fd/kcp

をご覧ください。

2020/6/9

(うとQホームページ内「ナマステ別館堂出版」ページ全面改訂のご案内)

思うところあって、掲題の件を行います。

思うところというのは

「うときゅういっき と 只六の作家色をトーンダウンすることにし、出版目的を前面に打ち出すことにしました」

ということです。

そうして、その改訂内容は以下とする予定でございます。

 

電子書籍出版                                                                                           

ナマステ別館堂出版部の目的を少しご説明いたします。                                                              

                 「元気が何よりじゃ」                                                                           

表題は、今は亡きおふくろの言葉です。                                                                                            

これだけでは、何のことかわからないと思いますので、今少し                                 

続きを書かせて戴きますと                                                                                                    

「お金も家も二の次。                                                                                           

三度のご飯が食べられて、元気なのが一番。                                                                                   

それで充分。                                                                                           

あとはオマケみたいなもんだから」                                                                                                    

これは、バブル崩壊で一夜にして父が大損をしたときに口にした                                              

言葉でした。                                                                                           

そうして、その父は、元は船乗りで、自分が子供の頃、よくこう言って                                 

おりました。                                                                                           

「船長は、全員の無事退艦を認めてから、最後に船を降りるものだ」                                                                                       

それを息子である自分が少し進めて                                                                                                    

「元気が何よりだとして、もし今、自分に元気がないのなら、                                                  

それは、どうしてなのか?」                                                                                                

ひょっとして、その一因は「逃げ」から生まれているのではないか?                                     

これを仮説として、その原因を考え、ご自分なりの答えを見つける                                         

きっかけを提供する出版物の発刊を                                                                                                    

「ナマステ別館堂出版部の目的」とすることにいたしました。                                                  

自分は、今は、あの世暮らしとなった父と母を大変、尊敬して                                                  

いるものですから、それを引き継いで、そう致しました。                                                                                           

トップページのURLは以下となります。                                                       

http://utokyu.co.jp

その中の「ナマステ別館堂出版」のタブを叩いてご覧くださいませ。

反映は本日午後となりますので、よろしくお願い申し上げます。

 

以上、ナマステ別館堂出版主人でした。

2020/5/28

(新刊本「じんおわ」のご案内)

新刊本のご案内です。

本日、弊社 株式会社うとQ ナマステ別館堂出版部より

 

うときゅう いっき著

「(新本)「人生終わったな」と思う間もなくトンネルの、闇を抜けて広野原」

 

のご案内を申し上げます。(短く「じんおわ」とでもお呼びくださいませ)

 

本書は、自分(著者)がこれまでの経験から得た

「ピンチの後にチャンスあり」「終わりが始まり」

何かを終わらせないと何かが始まらない、何かを捨てないと新たに何かを得られない、

の思いを、皆様に「膝を詰めてお伝えする機会」をうかがっておりましたが、幸か不幸か、現コロナ禍において、以前当ブログでも申し述べさせていただきましたが

「大変こそ大機」つまり「大きな変化の時こそ大きな機会(チャンス)がある。自作熟語にすると「大捨大得」(大きく捨てて、大きく得る)」という上述の思いを述べるに千載一遇のチャンスを得ましたので、今回そのチャンスを逃さぬよう、自分が使える昼夜のあらゆる時間を注ぎ込んで発刊にこぎつけた次第でございます。

 

尚、本書は紙媒体ではなく、昨今はやりのデジタル化の進展に伴い

Amazon kindleでの電子書籍出版の形をとらせていただきます。

コストがかからず、素早く、軽いのが特徴です。

お手持ちのパソコンでも、タブレットでも、スマホでも、お手軽にいつでもどこでも本書をご覧いただけます。

お値段も11ドル(日本円換算で108円)とお手頃です。

 

ご購入は こちら です。左の「こちら」をクリックするとAmazon kindleサイトへ移動します。

 

また、Amazon kindleで購入した電子書籍をお読みになるのは、Kindle読書アプリ(無料)が必要です。(iOSAndroid・パソコン(MacWindows)版があります)

詳しくは

https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/fd/kcp

をご覧ください。