2022/8/8

(うとQ世話し「 袖擦り合うも多生の縁」から見た現代marketing論考)

「袖擦り合うも多生の縁」

会社員時代の事。

昼食を取りにお店に入った時、注文品が出てくる迄手持無沙汰だったので壁にかかっていたお品書きの札を何気なく見ていると不図その脇にあった冒頭の諺(格言?)の色紙が目に留まりました。

「ん?袖擦り合うも多少の縁、じゃないの?」

自分はそれ迄「多生」ではなく「多少」とばかり思っていたので強い違和感を覚えました。

それ迄の自分の理解では

「偶然袖をすり合うのも少し位は相手と縁があるからだ」


「袖擦り合うも多少の縁」

と思っていたのですが、

「袖擦り合うも多生の縁」

だと

「偶然袖を擦り合うのも多く生きて(色々な経験をしたり、処々方々に出かけたりして)いるからだという事になり意味合いがまるで違ってきます。

自分はその頃商品企画担当でmarketingが主業務だったので是をmarketingに無意識に当て嵌めてしまいました。

自分が思っていた様に

「袖擦り合うも多少の縁」

であれば「多少」という位なので量、率、即ち確率論の話になる。

現代marketingで言えば効率化。

もっと分り易く言えばヒット確率、其れの上昇が「効率の良いmarketing」とされていて、それを疑いもしていないのが「今の自分やその上司」

一方、仮に

「袖擦り合うも多生の縁」

が本来だとすると

お目当てのヒットにありつくにはターゲットを絞り込んで効率を上げるよりむしろ(何が当たるきっかけになるかは人智是及ばず、が世の常であるから)鼻から絞り込み等せずに、チャンスが生起する瞬間を捉えて打ち返す練習がてら、投網を大きく張るが如く色々な事にトライ(=練習)した方が余程ヒット確率が上がるという解釈も成り立つ。是は今迄自分が考えた事もない、又上司が「悠長に過る」と絶対認めて呉れない思考方法。

それにしても何故諺(格言?)はそう言っているのか?

思い返せば確率や効率尽くめの理詰めコンセプトで「是は絶対にあたる」という下馬評の高いものに程当たらないのも又事実でした。

だが其れは何故か?

思うにそれは確率や効率という一見誰もが科学だと思うその根底に人の思惑が働いていて「科学的な衣装を纏った提案者の自己都合でしかないから」の様な。

もし是が本当ならこと現代marketingに関しては

「袖擦り合う真のターゲットに巡り合いたければ、先ずはあちこちドサ周りをして人の姿、暮らしぶり、意見を見聞きし己の自己都合なるものを先ずは消去して来い。

その方が時間的には遠回りで一見非効率に見えるが最終効果的には却ってその方が良い答えがでる。

何故なら自己都合を排した世の中の自律的メカニズム(=道理)に立てるからだ」

という注意喚起に

元の諺(格言?)に戻せば

「袖擦り合いたくば多くの生を生きよ」

という事なのかもしれないなと思いました。

今実戦でmarketingをしている者としては、現代marketingもその位の大転換をしないと先行き袋小路に陥る様な気がしてなりません。

注)

是は一つの譬え例です。

 

2022/8/7

(掌編小説(定本)「老斗(らおど)」)

キリっとして如何にも気の強そうな顔をしているのに、意外にも子供好き。

お店にやってくる子供を見ると相好が崩れる。

何度来てもやはり相好を崩す。

見てくれ構わぬ働き者。地べたにはいつくばって念入りに雑巾掛けをする。

故国からやってきた後輩の面倒もよく見る姉御肌。

反面少し焼きもち焼き。

それはすぐ表情に出る。

子供みたいなところもある。

思ったよりお茶目でユーモラスだ。

けれど頭はなかなかいい。

学がある訳ではなさそうだが、気働きと回転が速い。

今どき我が国には居ないタイプ。

それで外見はというと、実際そんな恰好をしている訳ではないが、イメージとして

「黒いチャイナドレスに身を包んだ謎の美人人妻スパイ」

初めお互いの国の言葉を聞きあい教え合う処から始まって、

助けたり助けられたり、

庇ったり庇われたり、

手に入りにくいものを手に入れてやったり、家族にしか出さないという賄い料理を食べさせてもらったり。

行くと自分の紹興酒のボトルには一目見てわかる様に必ずゴム輪が巻かれておりラベルの上には「老人」と書かれている。

初めは何も言わなかったが、だんだんこちらの気持ちが動くにしたがって気になりだした。

そしてある日

「確かに俺はじいさんだが、何もわざわざ「老人」と書く事はないだろう。なんで「老人」と書くんだ?」

と聞いてみたが、なにやらにやにや笑うばかりで答える素振りがまるでない。

顔には「ヒッ、ミッ、ツ」と書いてあるように見える。

例のお茶目顔の上にそう書いてある。

処があるとき、本人がしばらく席を外していたので、幾分暇を持て余し、そのボトルを何気なく見ていると「老人」と書かれているとばかり思っていた文字が「老人」ではなく「老斗」と書かれていることに気づいた。

「老人じゃないのか。でも老斗ってなんの事だ?」

それで手元のスマホアプリで調べてみると「らおど=いつも斗(たたかって)いる」と出た。

戻ってきた俊麗にそのことを言うと

「アナタ、イツモ、タタカッテイル」

と恥ずかしそうに照れ笑いをした。

其れが得も言われず可愛らしかった。

「カワイイってなんていうんだ?」

「くーあい」

「じぁ、ニー、クーアイ、クーアイ。フェイチャン(=very)、クーアイ」

結局彼女とは結ばれることはありませんでした。5年前の事です。

しかし俊麗が呉れた「老斗」という言葉だけは心の中核に残っております。

お怖れながら、今思えばあの時初めて耳目した「老斗(らおど)」というたった一音一語がひとの「性分(しょうぶん)という奥底」に忍び込み、その後の自分の歩き方を密かに決定づけたような気がしないでもありません。

 

2022/8/2-4

(オマケの英語教室 One point advice

前記事「May I explain to you?」の中で

「(英語の動詞)getは強い感情を表す」という意味の事を書きました処、早速質問がございました。

getがどうして強い感情を表す事になるといえるのでしょうか?」

是はあまり深く考えない方がいいかもしれません。

単純に「ゲットの中にゲッという濁音が入っていて力を込めやすいので「強さを表す」」と思っておく程度でいいのではないでしょうか(この傾向はどの言語でもほぼ同じです)

例えば

Have to(ハフトゥー)よりshould(シュドゥ)の方が力強いので「しないと(いけない)」ではなく「しなくちゃな」となりますし

Stop(ストップ)というよりNever do(ネバードゥー)やNever have done(ネバーハブダン)の方が力強いので「やめろ」より「するな」で禁止の度合いの高さが感じ取れますでしょう?

是は前にもお話いたしましたが、語学というのは、元々は文法ありきでも文字ありきでもなく、単純に音の連なりから始まっているだけなのです。

それを後日整理したのが文法というだけの話です。

(起点がまるで逆なのです。文法スタートで音に敷衍されたのではなく、音スタートで文法が出来上がったのです。それを勘違いするから学び方が逆転してしまい、訳が分からなくなってしまうのです)

なので、基本的には「迷ったら語呂のいい方に従え」ですし「言いやすい方をたどっていけば結構文法的な間違いも少なくなる」ようです。

要するに語学というのは「言いやすいように、喋り易い様に出来ているもの」なのです。

そうでないとみんなが覚えられないし、覚えられない又は喋り難ければみんなが使ってくれなくなるからです。

つまるところただそれだけの話の様な気がしております。

是も前にお話し申し上げましたが会話の英語は受験英語の様に「落とす事が目的で極めてrareな文章を出す根性悪」とは正反対で「みんなが喋れるように親切さをてんこ盛りした知恵の塊みたいなもの」なので、くれぐれも誤解なさいませぬよう。

そしてご安心下さりますように。

2022/8/2-3

(オマケの英語教室 May I explain to you?

“Namaste(=Hello), Ukraine. We never forgetyou and always have gotten remembered all of you

(こんにちは、ウクライナ。決して忘れないしいつも君たち全員の事を(キッチリ=片時も忘れずに)思い出しているからな)

この英文は数日前に当店店頭に出しました黒板に書いた文言です。

政治の話ではありません。英語表現のお話です。

しばしば英語の試験で「時制の一致(整合)」に関する問題が出ます。

その視点から見ますと上記の文章の中で

Have remembered

でも

Have gotten remembered

でも

「どちらでも正解だよ」

と言われるかと思います。

因みに

Rememberは「思い出す」

Rememberedは「思い出した」

Have rememberedは「思い出して(い)る」

この「い」は時間的継続を表します。

つまりここで言いたい表現内容は単に「思い出す」だけではなく「時間的継続を伴って迄」の時間的継続つまりalways「いつも」を強調する意味がありまります。

なので、自分が伝えたい感情からすれば一応、意は達している事になるので

「後述の文章と比較」して

「間違いではない(どちらでもいい)」となっても不思議はありません。

では何故自分はhave rememberedで済むところを敢えてgotten(getの完了形)をつけたのか?

後述と申し上げました文章は以下です。

(We) always have gotten remembered all ofyou

それは「いつも思い出している(いつも忘れないでいる)」だけではなく「いつも(キッチリ)思い出している(片時も忘れる事なく思い出している)」というより強い思いを表したかったからです。

この際使われているgetという動詞は「非常に強い感情を表す」場合がとても多いのです。

例えばgo awayではなくgetawayと言われたら、これはもう

「あっちに行け」「来るな」「近寄るな」

位の強い拒否を表しています。

要するにそれ位強い感情を表現する場合に使われる動詞がgetなのです。

何が言いたいかと申しますと

「文法的にはどちらでも間違いない」

のかもしれませんが、自分の気持ちとしては絶対にgottengetの完了形)が入っていないと伝えたい気持ちが大幅に減じた様に感じられるのです。

例えば試験の問題として、話者から聞いた話を自分が聞いたのが過去であった場合、フランス語で言う処の過去と大過去の関係(英語の過去と過去完了の関係より過去と大過去の方が時間軸を説明する上で言葉が分かり易いので敢えてフランス語文法用語を使わさせて戴きました)で書くと

He said his wife had complained to him

(彼の奥さんがぶつぶつ文句を言っていると彼は言った)

の様な時制上の正誤の問題や慣用句、常套句等のイディオムの使い方が合っているの、いないのというのなら分かります。

しかし試験による判定はそこ迄が限界です。

では何の判定か?

と申せば語学の本来の目的である「円滑なコミュニケーションを相手と取ろうとする思いとその思いの中身を伝えられる具体的な力」

の判定です。

ですので、仮にTOEIC, TOFLEで満点を取ったからと言ってそれは完成でも最終ゴールのテープ切りでも何でもない、全く別物の「脇道での一つのエピソード」に過ぎない様な気が致しております。

2022/8/1-3

(「再度」書直し版 wide range

大学生時代だったか就職したての頃だったか忘れましたが、恐らく20代の頃。テレビコマーシャルで

「大胆にして細心」

というキャッチフレーズがありました。

確かキャラクターには黒澤明監督が使われて(失礼な物言いご無礼申し上げます)いたと記憶しております。

当時そのフレーズを耳にして

「そうあればいいけれど、相反(あいはん)するものが同じ人間の中でそんなに容易く成り立つものだろうか?対極二律背反を言いくるめた詭弁ではないか?」

と思った事を覚えております。

それから幾星霜。

他界されたとはいえ大御所なのでそう簡単にそのフレーズを却下もできず色々考えておりましたが、

更にそれから幾星霜が経ち、最近

「そうかwide rangeであれば成り立つのか。要するに大きな処から細かい処迄包含して見通せる視野角があれば成り立つ」

此処で話は一転。本日の主題です。

ネットであるものを探していてそれを検索すると次画面から、新たに検索入力をしていないにも拘らず、それに関連した商品の紹介が突然、次から次へと出てきます。

必要なものを(絞り込み効果で)早く見つけたい時や、探し物(或いは検索)のコンセプトだけ決まっていて「できれば想定している以上のものを見つけたい、掘り出し物を得たい」様な場合には大変便利な仕様なのですが、同じ傾向の範疇のものばかりが続くと「それとはまったく異なったジャンルのもの」に接する(遭遇発見する)機会がどんどん減っていく事になります。

簡単な言葉で申し上げますと「偏って」しまいます。

そしてその傾向が更に進むと、初めに自分が陥った「大胆にして細心」を本意とは反対の「非包含、対極二律背反」つまり「対立的傾向」へと流されやすくなります。

本意の「大胆から細心迄のwide range視野角」ではなく、です。

例えば対立項が「大胆」と「細心」ではなく「センスがいい派」と「悪い派」等のお互い同士の価値観に関する評価の仕合いが始まるともうこれは「水掛け論の泥仕合」になる以外ありません。

是又簡単な言葉で申し上げますと「排斥」です。

それを避けるにはEC市場ベースで申し上げますと「自分の好み以外のもの」「今時点自分は欲していないもの」にも触れる機会が是非とも必要な気がします。

それというのも今の自分の傾向がずっと続くとも限らないし、今提示されている以上のもっといいものが出てくる可能性もあるからです。

「今の傾向が必ずしもベストとは限らない」し

「もっといいものとの出会いを見逃した」からと言ってEC側は誰も責任を取らないからです。

もしご自分がキャッチャーならそのミットはwide rangeに構えておいた方がよくはないでしょうか。

即ち「好球から悪球迄」捌ける様にどんなケースをも想定して準備をしておく。

練習で好球ばかり捕球していて、試合で突然悪球が来ても困らない様に。

その為には練習段階から悪球の捕球練習を組み込んでおいた方が合理的だと思いますが。

2022/8/1-2

(書直し版 うとQ世話し 見当違いで逆効果)

人は思っている以上に遥かに優れた想像力がある。

高いアンテナとレーダーを備えている。

今迄見誤っていた。

というのがしばらく前に気づいた事です。

今迄はそれに気づかなかった分、もっと率直に申せば「完全に見くびっていた」分大きな過ちを犯し相手に圧迫や不快感も与えていたようです。

その第一は「説明過多」の過ち

文章を書けば読者に対して、家庭内教育では子供たちに対して説明をし過ぎ、却ってノイズを発生し、読者には息苦しさを、息子たちには反感を抱かせてしまった様です。

特に家庭内では

「考える前に言うな」

「誘導は止めろ」

と相当な反発を食らいました。

その第二は「見せ過多」による不快感

正確には「見せ過多的説明過多」

アンテナやレーダー感度がこちら側の想像以上に高い多くの方々からみれば「何も言わなくても見ればわかる(感じる)」ので、それだけで十分なのに、それ以上敢えて口にしたりパフォーマンスしたりした時点で完全に「過多」「過剰」「嫌味」「これ見よがし」としてしか捉えられていない事に気付いていなかったのです。

記憶や印象に残してもらいたいがためにしている行為が、却って記憶や印象に残す事への「拒否反応」を起こさせてしまっている。

だとしたら、聞き手、見手の感想は、受け手の想像力、感得力を信頼するだけでいい。

一言で申せば

「やる事だけやって、後はお任せする」

その方が余程いい結果が得られる、と思うに至りました。

 

2022/7/30

(うとQ世話し 好きと得意は因果関係ではありません。独立別系統です)

「好きだから上手くなれる」

「得意だから好き」

いずれにせよ、上の二つは好き→得意

又は得意→好き

と、世間一般ではAの結果Bになるという因果関係で結ばれるのが殆どの様です。

その為、「定理」である筈の順列因果関係に不順列「好きなのにできない」が発生した場合その夢を諦めてしまう場合が結構ある様です。

一方自分の場合、特に中学校の頃ですが

「好きだけど成績は全然ダメ」

というのが殆どでした。英数国理社。

しかし自分の場合は、それ以上に「全然ダメだけど(それらが)好き」でした。

「好き」というより「ものすごく興味がある」

出来ないからと言ってこの「好き」を捨てるのはもったいない気が何処かでしておりました。

逆に「得意だけれどあまり興味がなかった」のが、授業以外ですがダジャレなんかの言葉遊び。

なんか思い付きで言うと一部の人には大変面白がられたのですが、別にどうでもいい気がしてほったらかしておりました。

話は変わりますが

後年になって自分が得た感想は

「自分の得意な事がうまくいき、褒められる」

事より

「好きだけど全然できなかったことができるようになった」

時の方が、その喜びは前者の100倍位大きく感じられるという事です。

中学でダメだった数学が後年経理となって「なぁんだ、加減乗除だけでいいのか」と分かり数字(の裏にあるもの)がだんだん読めるようになった時や

ダメだった英語が「なぁんだ、英語さんの方は、何もidiomを覚えろ!!と言っていた訳じゃなくて自分なりにその場の状況に合わせてどんどん新語を作り出しても一向に構わないよと言っていただけなんだ」と分かった時

同じくダメだった理科が「要するにwhywhathowをしつこく続けていればいいだけなんだ」

と分かった時の様に、ある事に気が付いて(好きだと自然と何かしらに気づく傾向がある様です)それなりに成果が出始めた時、つまり好きだけど不得手で、好きだからこそ不得手である事と向き合いたくない心理から無意識に「逃げたり、迂回したり、避けて通っていた」鬼門エリアを特段意識せずに済む安堵感。

丁度「踏んだら命を落としてしまう地雷原が一気に縮小又は消滅した」様な感じの。

或いはそれが元となって新たに獲得した領域の広がりや選択肢、持ち駒の増加による自由度アップ、行動制限の緩和が与えてくれた拡大感。

等を味わう事が出来ました。

以上の事柄を僭越ながら自分なりに整理してみますと

「好きな事と得意な事は必ずしも同じではない(因果関係にはない)」

「得意かどうかよりも、それが好きかどうかの方が余程重い。好きに拘った方が最終的な結果は良く出る事が多い」


「譬え当初不得手でもその「好き」を捨てずに長年続けて、その後に「ある解を見つけた時」の喜びは、得意な事で上手くいった時の喜びの比ではない」

というのが是迄68年間生きてきた自分の実感で御座います。

2022/7/29-2

(うとQ世話し そもそも初めは何でしたっけ?)

畏れ多くもおこがましくも自分の基本姿勢にしたいと願っている

「丁寧且つ具体的に、根本に遡って」

という以前の言い方は

そもそも初めは何でしたっけ?何の為に始めたんでしたっけ?」

でした。

実はこれ、自分の言葉ではなく、ある方が教えてくださった言葉なのです。

今を去る事13年前、2008年のリーマンショックから凡そ1年後、2009年秋の事でした。

ふとした事から地元の焼鳥屋さんで隣同士になった「お若い方」と、約束はしないけれど偶然会えば話をする間柄になりました。

当時リーマンショックが起きたにも拘らず勤めていた会社の経営幹部が何の手も打たない事に不信感を抱き、程なくそれはハッキリとした危機感に変わりました。

「このままではマズイ。何とかしなくては」

一介の主任でしかない自分が何故そんな大それた事を思ったかと申しますと、実は

12年もの間うつ病を罹患した経歴の持ち主である自分の様な人間は会社が潰れれば再就職はほぼ絶望的だ。

生き残るにはこの会社を潰さない様にするしかない。自分の再就職の可能性よりその方がまだ現実的だ」

という思いからでした。

処が実際に社内で様々な活動を始めてみますと事は思った様には「全く」運びませんでした。

それである日、その焼鳥屋さんで知り合ったその「お若い方」に事情を説明し、それを元に発散目的で愚痴った処、そのお方はその後に述べる回答の説明上「自分が転職した先から見れば今まで顧客側であったマイクロソフト日本法人」から「今度は業者側のインテル日本法人」にプロジェクトリーダーとして転職した身の上だと前置きをした上で、

「今、自分も四苦八苦しています。特に行き詰った時は、それを打開するというより元顧客で、外様でしない自分と生え抜きで下請け扱いされていたと思い込んでいる業者側の古参同士の争いになり勝ちでお互い「正誤よりも言いあら争いに負けない事」を優先し勝ちになり易いのです。

しかしそれでは言い争いには勝ててもプロジェクトをいい方向に持っていくというプロジェクトリーダーとしては失格である事に気づきました。自分の仕事は言い争いに勝ち自分のメンツを保つ事ではなくプロジェクトを成功させる事が最重要任務なのだと自分に言い聞かせ、自分にも相手にもこう問う事にしています

「そもそも初めは何でしたっけ?何の為に始めたんでしたっけ?この業務」って」

自分はその時既に55歳、そのお方は30歳ちょっと出るか出ないか位。

その時程「実年齢、つくづく無関係」と思い知らされた事はありませんでした。

そして「いい自問自答の仕方を教わった」と思い、それ以降常々それを使う様になり、その「お若い方」への恩返しの意味もあって既述の書名とさせて戴いた次第。

後記)

その後何故かその「お若い方」をお見掛けしておりません。ある日を境に突然来なくなってしまったのです。

ご無事であればと思っております。